• 論考

    Man is not equally mortal――灰谷魚「死と教育」について

    灰谷魚さんの「死と教育」は、二〇一九年一一月二二日に、SNS「note」に発表された、合計六六六字の、掌編小説としてもかなり短い部類に属すると言っていいだろう小説です。(ついでにいうのなら、六六六という数字は非常に不穏なものですよね。)もう存命でない方についてお話するときでしたら、簡単に略歴とかを紹介するのもいいのでしょうが、灰谷さんはカクヨムやg.o.a.tなどで現在進行形でご活躍中なので、わたしがしれっと余計なことを申し上げるよりはそちらをご覧いただくほうが早いうえ誤解が少ないと思います。灰谷さんのTwitterアカウントを本書末尾に記載いたしますので、ぜひご確認ください。

    「死と教育」について語る前に、まずは少々個人的なことをお話しさせていただければと思います。わたしは二〇一九年に祖母を亡くしました。突然死とかではなく、がん闘病の末の死だったので、そういう意味でのショックは少なかったのですが、その死を、なんというか、少々うまく受け止められない自分がいて。もちろん、死んだ人間がザオリク一回で蘇るとかそんなことを思っているわけではないのですが、悲しむとかよりも、なんだか妙にハイテンションになってしまって……。もしかするとそうすることで、死を直視せず気を散らしていたのかもしれません。

    なぜこんな話をしたか、というと「死と教育」における「死」の扱われ方を少し考えてみたいからです。

    「死と教育」は特異な設定の小説です、それは、冒頭の〈13歳にして僕は小学校の担任を全員亡くしている。〉という一文で、まずは決定的に示されることになります。つづく段落では、六人のうち五人の死因が淡々と語られてゆきます。

    そもそも、子供にとって「死」とはなんでしょう。碓井真史さんが明確にしてくれていますとおり、ごくごく小さいころの子供はアニミズム的価値観で生をとらえる一方で、死については、認識に鎧戸をおろされた状態にあります。そうして、長ずるにつれ、「死んだものは生き返らない」という認識に至りつくわけです。もし、子供のうちに死に触れる機会があった場合、その感情の表現能力の低さから、あたかもなにごともないかのようにふるまってしまい、身体症状となって現れる場合もあるとか。

    では、「死と教育」の語り手の〈ぼく〉はどうでしょうか。碓井さんは、「死を理解するためには青年期を待たなければならない」ということもおっしゃっています。一三歳という年齢は、なるほど、青年というよりは少年と呼ぶにふさわしく、彼は「死というものに理解が及んでいない」がゆえに、さくさくと担任の死を羅列している、という可能性がまずあります。

    しかし、この可能性に留まりつづけることは、少々むずかしいのではないかと思います。なんとなれば、〈ぼく〉が六人のうち四人が老人であったこと、すなわち、若者より死に近しい存在であったことを「読者」に断っているからです。これは少なくともふたつの意味で重要です。第一に、老人=死により近しい、という「認識」自体が幼児のものでないから、第二に、これはテクストの構造上の話になりますが、この一文が本文にあるという事実自体が、〈ぼく〉のある種の老成した価値観――というよりもこう言ったほうが適切かもしれません――数々の死によって老成「させられた」価値観を示しうるからです。

    このことについて、もう少々説明がいるかもしれません。試しに「死と教育」から〈6人の先生のうち、4人は老人だった。〉の一文を、落としてみましょう。これがないことで、まず、得られるものがあります。すなわちスピード感です。死を徹底的に記号化するのなら、その前提である「生」も、もっというなら、個々の人間の「属性」も、剝ぎ取られているほうがベターであるように、個人的には思われます。

    では、逆にこの一文があることで得られるものというのはないのでしょうか。もちろんあります。今言ったことのちょうど逆にあたるものがそれです。つまり、スピード感をほんのすこし犠牲にすることによって、死や生は記号化をぎりぎりのところで――「死と教育」においては、ほんとうに絶妙にぎりぎりのところで、といっていいでしょう――免れることになる。そうして、そのことが、死に対する非-無垢さと非-すれた感じの混淆した表現となって、読者の目の前に現前する「文字列」となるのです。

    未見のものについて語るのは、本来まったく褒められたものではない、ということをお断りおきしたうえで、わたしが思い出したのは、どこかで拝読した、スティーブン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」(未見のものなので、あまりつまびらかに説明することはできないのですが、この映画はホロコーストについての映画です)についてのこんな評価です。すなわち、「登場人物の顔を視聴者の記憶に刻みこめるように描写することで、その個々の死に重みを与えている」という――。

    ただしもちろん、〈老人だった〉というだけでは、個々の「顔」を描き出すには十分とは言えません。では、個々の顔が十分でないということは、「死と教育」において瑕瑾と言えるのか、ということが、当然次に問題になってくるでしょう。

    ここで、ここまでで語られていない六人目の死者についての言及を、いよいよ見てみなくてはなりません。

    六人目の死者、この作品においては、「最後まで生きていた〈ぼく〉の担任」、ということになりますが、彼女について、〈ぼく〉はこう言っています。

    きのう遠い街で殺されて、
    山岸沙織(26)
    という文字列に変化してしまった。

    これが、これまでの五人の死を語る手つきとはまるで違っていることは明白でしょう。まず、名前がある。そして年齢がある。さらにいうなら、〈文字列に変化してしまった〉とある。これ自体が、まったくの無味乾燥なものではないことは先ほどお話したとおりですが、それでも単なる「文字列」にかなり接近したものとして描写された五人の死に対する、ある種のシニカルさ(と入力したら、「死に軽さ」と変換されました)のある批評として機能しているといっていいでしょう。

    このことから言えるのは、五人の「死に軽さ」は、山岸先生の死をより明るくくっきりと見せるためにつけられた影のようなものとして存在している、ということです。けれども、語り手〈ぼく〉の倫理観は、いっぽうで、「死」というものを、いわば「だれかを輝かせる」ために軽々に使用することをよしとしなかった。ゆえに、これまで長々と述べてきたとおりに、〈6人の先生のうち、4人は老人だった。〉という但し書きをつけているのだ、と考えることができます。

    山岸先生が〈ぼく〉にとって特別な先生であったことは、つづく展開からも看て取れます。すなわち、中学受験のための算数の補習をしてくれる山岸先生に対して、わかっている問題をわかっていないふりをして聞く、という身振りです。先生の厚意を無にしたくなかった、という少年らしい遠慮。あるいは、先生の〈クリアな〉声を聞いていたかったという少年らしい欲望。ここはいかようにも解釈の余地が残っているでしょうが、どんな解釈をするにあたっても前提となるのは、〈ぼく〉の山岸先生に対する好感です。それは、〈山岸先生のブラウスの襟にかかった髪の挙動を今も覚えている〉という部分においても同様でしょう。〈覚えている〉ためには知っておく必要があり、知っておくためには〈髪の挙動〉を見つめている必要があるのですから。

    いっぽうで〈ぼく〉は、「大好きだった山岸先生」とか、「山岸先生はぼくにとって特別な先生でした」とか、そういう、文字化してしまうとチープさを帯びかねない言葉で山岸先生を表現していないことにも気づかされるのではないでしょうか。安易な、つまり使い古された、つまり「ほかのだれか」に対しても使用することが可能な修辞を撥ね退けるくらいの特別さ。それは、〈先生からは何の匂いもしなかった。清潔な花瓶みたいな人だ。〉という箇所で、ひとつの極点に達するのではないかと思います。〈清潔な花瓶みたいな〉とは、正直、これはすごいなと思いました。まったくの平易な言葉でありつつも独特な歯ごたえがあって、かつ、その言わんとすることが、すっきりと心のなかに入って来る。

    テクストの終盤、ル・クレジオの「大洪水」が引用されます。引用の引用はやむをえない限りは避けたいところですが、今回はどうしても必要なので少しだけ。ル・クレジオは単に「頭の中」ではなく、まず〈頭蓋骨の中〉と言っていますね。「頭蓋骨」、というのは、西洋絵画の図像学においては、「死」の寓意を孕んだものですことをご存じの方も多いでしょう。そうして、その中において〈生存しないということはできなかった〉とある。つまり、生を死の檻が囲っているイメージです。しかし、〈ぼく〉はこれに対して、〈小説には嘘ばかりが書いてある〉と陳べます。嘘だからいいとか悪いとかの話はしていないことは一応考慮に入れる必要がありますが、それでも、これは考えようによっては奇妙なことかもしれません。〈ぼく〉の生の周りには少なくとも六本の「死」の柱があり、それは、見ようによっては、ル・クレジオの描いた生と死の図と同様ですから。

    ところで、ヴァニタス画――西洋絵画における頭蓋骨などのモチーフが寓意的に用いられた絵画――とは何か、ということを考えてみると、たとえば貫井一美さんは次のように言っています。

    ヴァニタス画は静物画の 1ジャンルであり,人間の死すべき運命を象徴し,この世の富と栄光の虚しさを諭す絵画である.(貫井一美「バルデス・レアル作 〈虚無のアレゴリー〉〈救済のアレゴリー〉 ~ヴァニタス画に描かれた「本」の持つ意味~」より)

    注目すべきは〈死すべき運命〉です。この言葉が暗に示すのは、死というものの「平等さ」です。生は固有のものであっても、死というのは、〈ぼく〉の言葉を借りれば、誰もを〈文字列〉化するものである。そういう点において相違はありません。

    ですが、〈文字列〉と言いながらも、〈ぼく〉が山岸先生を語る口ぶりはどうでしょうか。それは、〈文字列〉に対する飽くなき反撥であり、五人の死の語り口の少なからぬそっけなさと比較してそこからうかがえるのは、いささか敷衍しすぎかもしれませんが、「生が平等でないのと同様に、死も平等でない」という価値観ではないでしょうか。ル・クレジオの小説を「嘘」と見なす語り手の心理は、たとえばこういうふうに考えてみると、しっくりくるように思われます。

    山岸先生は病死や事故死ではなく、なにものかに〈遠い街〉で殺され死を迎えます。「理不尽」、というにふさわしい死の迎え方と言っていいでしょう。なるほど、死は誰にでも訪れるものです。けれども、死が平等なのは自身が死者になってからであって、少なくとも生者はそういう言葉で死を語るべきではないのではないか。そんなことについて考えさせられた、非常に刺激的でおもしろい作品でした。

    • ❖取り上げた作品
    • ・灰谷魚「死と教育」https://note.com/haitani/n/n4d6701afc1b2(二〇二一年九月三日閲覧)
    • ❖取り上げた作品の著者について
    • ・灰谷魚 Twitter https://twitter.com/sakanasama0824
    • ❖参考文献など
    • ・碓井真史「子供の死生観と教育」http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/koneko/2005/siseikan.html(二〇二一年九月三日閲覧)
    • ・貫井一美「バルデス・レアル作 〈虚無のアレゴリー〉〈救済のアレゴリー〉 ~ヴァニタス画に描かれた「本」の持つ意味~」(「清泉女子大学キリスト教文化研究所年報」二三巻、二〇一五年)