• 論考

    Man is not equally mortal――灰谷魚「死と教育」について

    灰谷魚さんの「死と教育」は、二〇一九年一一月二二日に、SNS「note」に発表された、合計六六六字の、掌編小説としてもかなり短い部類に属すると言っていいだろう小説です。(ついでにいうのなら、六六六という数字は非常に不穏なものですよね。)もう存命でない方についてお話するときでしたら、簡単に略歴とかを紹介するのもいいのでしょうが、灰谷さんはカクヨムやg.o.a.tなどで現在進行形でご活躍中なので、わたしがしれっと余計なことを申し上げるよりはそちらをご覧いただくほうが早いうえ誤解が少ないと思います。灰谷さんのTwitterアカウントを本書末尾に記載いたしますので、ぜひご確認ください。

    「死と教育」について語る前に、まずは少々個人的なことをお話しさせていただければと思います。わたしは二〇一九年に祖母を亡くしました。突然死とかではなく、がん闘病の末の死だったので、そういう意味でのショックは少なかったのですが、その死を、なんというか、少々うまく受け止められない自分がいて。もちろん、死んだ人間がザオリク一回で蘇るとかそんなことを思っているわけではないのですが、悲しむとかよりも、なんだか妙にハイテンションになってしまって……。もしかするとそうすることで、死を直視せず気を散らしていたのかもしれません。

    なぜこんな話をしたか、というと「死と教育」における「死」の扱われ方を少し考えてみたいからです。

    「死と教育」は特異な設定の小説です、それは、冒頭の〈13歳にして僕は小学校の担任を全員亡くしている。〉という一文で、まずは決定的に示されることになります。つづく段落では、六人のうち五人の死因が淡々と語られてゆきます。

    そもそも、子供にとって「死」とはなんでしょう。碓井真史さんが明確にしてくれていますとおり、ごくごく小さいころの子供はアニミズム的価値観で生をとらえる一方で、死については、認識に鎧戸をおろされた状態にあります。そうして、長ずるにつれ、「死んだものは生き返らない」という認識に至りつくわけです。もし、子供のうちに死に触れる機会があった場合、その感情の表現能力の低さから、あたかもなにごともないかのようにふるまってしまい、身体症状となって現れる場合もあるとか。

    では、「死と教育」の語り手の〈ぼく〉はどうでしょうか。碓井さんは、「死を理解するためには青年期を待たなければならない」ということもおっしゃっています。一三歳という年齢は、なるほど、青年というよりは少年と呼ぶにふさわしく、彼は「死というものに理解が及んでいない」がゆえに、さくさくと担任の死を羅列している、という可能性がまずあります。

    しかし、この可能性に留まりつづけることは、少々むずかしいのではないかと思います。なんとなれば、〈ぼく〉が六人のうち四人が老人であったこと、すなわち、若者より死に近しい存在であったことを「読者」に断っているからです。これは少なくともふたつの意味で重要です。第一に、老人=死により近しい、という「認識」自体が幼児のものでないから、第二に、これはテクストの構造上の話になりますが、この一文が本文にあるという事実自体が、〈ぼく〉のある種の老成した価値観――というよりもこう言ったほうが適切かもしれません――数々の死によって老成「させられた」価値観を示しうるからです。

    このことについて、もう少々説明がいるかもしれません。試しに「死と教育」から〈6人の先生のうち、4人は老人だった。〉の一文を、落としてみましょう。これがないことで、まず、得られるものがあります。すなわちスピード感です。死を徹底的に記号化するのなら、その前提である「生」も、もっというなら、個々の人間の「属性」も、剝ぎ取られているほうがベターであるように、個人的には思われます。

    では、逆にこの一文があることで得られるものというのはないのでしょうか。もちろんあります。今言ったことのちょうど逆にあたるものがそれです。つまり、スピード感をほんのすこし犠牲にすることによって、死や生は記号化をぎりぎりのところで――「死と教育」においては、ほんとうに絶妙にぎりぎりのところで、といっていいでしょう――免れることになる。そうして、そのことが、死に対する非-無垢さと非-すれた感じの混淆した表現となって、読者の目の前に現前する「文字列」となるのです。

    未見のものについて語るのは、本来まったく褒められたものではない、ということをお断りおきしたうえで、わたしが思い出したのは、どこかで拝読した、スティーブン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」(未見のものなので、あまりつまびらかに説明することはできないのですが、この映画はホロコーストについての映画です)についてのこんな評価です。すなわち、「登場人物の顔を視聴者の記憶に刻みこめるように描写することで、その個々の死に重みを与えている」という――。

    ただしもちろん、〈老人だった〉というだけでは、個々の「顔」を描き出すには十分とは言えません。では、個々の顔が十分でないということは、「死と教育」において瑕瑾と言えるのか、ということが、当然次に問題になってくるでしょう。

    ここで、ここまでで語られていない六人目の死者についての言及を、いよいよ見てみなくてはなりません。

    六人目の死者、この作品においては、「最後まで生きていた〈ぼく〉の担任」、ということになりますが、彼女について、〈ぼく〉はこう言っています。

    きのう遠い街で殺されて、
    山岸沙織(26)
    という文字列に変化してしまった。

    これが、これまでの五人の死を語る手つきとはまるで違っていることは明白でしょう。まず、名前がある。そして年齢がある。さらにいうなら、〈文字列に変化してしまった〉とある。これ自体が、まったくの無味乾燥なものではないことは先ほどお話したとおりですが、それでも単なる「文字列」にかなり接近したものとして描写された五人の死に対する、ある種のシニカルさ(と入力したら、「死に軽さ」と変換されました)のある批評として機能しているといっていいでしょう。

    このことから言えるのは、五人の「死に軽さ」は、山岸先生の死をより明るくくっきりと見せるためにつけられた影のようなものとして存在している、ということです。けれども、語り手〈ぼく〉の倫理観は、いっぽうで、「死」というものを、いわば「だれかを輝かせる」ために軽々に使用することをよしとしなかった。ゆえに、これまで長々と述べてきたとおりに、〈6人の先生のうち、4人は老人だった。〉という但し書きをつけているのだ、と考えることができます。

    山岸先生が〈ぼく〉にとって特別な先生であったことは、つづく展開からも看て取れます。すなわち、中学受験のための算数の補習をしてくれる山岸先生に対して、わかっている問題をわかっていないふりをして聞く、という身振りです。先生の厚意を無にしたくなかった、という少年らしい遠慮。あるいは、先生の〈クリアな〉声を聞いていたかったという少年らしい欲望。ここはいかようにも解釈の余地が残っているでしょうが、どんな解釈をするにあたっても前提となるのは、〈ぼく〉の山岸先生に対する好感です。それは、〈山岸先生のブラウスの襟にかかった髪の挙動を今も覚えている〉という部分においても同様でしょう。〈覚えている〉ためには知っておく必要があり、知っておくためには〈髪の挙動〉を見つめている必要があるのですから。

    いっぽうで〈ぼく〉は、「大好きだった山岸先生」とか、「山岸先生はぼくにとって特別な先生でした」とか、そういう、文字化してしまうとチープさを帯びかねない言葉で山岸先生を表現していないことにも気づかされるのではないでしょうか。安易な、つまり使い古された、つまり「ほかのだれか」に対しても使用することが可能な修辞を撥ね退けるくらいの特別さ。それは、〈先生からは何の匂いもしなかった。清潔な花瓶みたいな人だ。〉という箇所で、ひとつの極点に達するのではないかと思います。〈清潔な花瓶みたいな〉とは、正直、これはすごいなと思いました。まったくの平易な言葉でありつつも独特な歯ごたえがあって、かつ、その言わんとすることが、すっきりと心のなかに入って来る。

    テクストの終盤、ル・クレジオの「大洪水」が引用されます。引用の引用はやむをえない限りは避けたいところですが、今回はどうしても必要なので少しだけ。ル・クレジオは単に「頭の中」ではなく、まず〈頭蓋骨の中〉と言っていますね。「頭蓋骨」、というのは、西洋絵画の図像学においては、「死」の寓意を孕んだものですことをご存じの方も多いでしょう。そうして、その中において〈生存しないということはできなかった〉とある。つまり、生を死の檻が囲っているイメージです。しかし、〈ぼく〉はこれに対して、〈小説には嘘ばかりが書いてある〉と陳べます。嘘だからいいとか悪いとかの話はしていないことは一応考慮に入れる必要がありますが、それでも、これは考えようによっては奇妙なことかもしれません。〈ぼく〉の生の周りには少なくとも六本の「死」の柱があり、それは、見ようによっては、ル・クレジオの描いた生と死の図と同様ですから。

    ところで、ヴァニタス画――西洋絵画における頭蓋骨などのモチーフが寓意的に用いられた絵画――とは何か、ということを考えてみると、たとえば貫井一美さんは次のように言っています。

    ヴァニタス画は静物画の 1ジャンルであり,人間の死すべき運命を象徴し,この世の富と栄光の虚しさを諭す絵画である.(貫井一美「バルデス・レアル作 〈虚無のアレゴリー〉〈救済のアレゴリー〉 ~ヴァニタス画に描かれた「本」の持つ意味~」より)

    注目すべきは〈死すべき運命〉です。この言葉が暗に示すのは、死というものの「平等さ」です。生は固有のものであっても、死というのは、〈ぼく〉の言葉を借りれば、誰もを〈文字列〉化するものである。そういう点において相違はありません。

    ですが、〈文字列〉と言いながらも、〈ぼく〉が山岸先生を語る口ぶりはどうでしょうか。それは、〈文字列〉に対する飽くなき反撥であり、五人の死の語り口の少なからぬそっけなさと比較してそこからうかがえるのは、いささか敷衍しすぎかもしれませんが、「生が平等でないのと同様に、死も平等でない」という価値観ではないでしょうか。ル・クレジオの小説を「嘘」と見なす語り手の心理は、たとえばこういうふうに考えてみると、しっくりくるように思われます。

    山岸先生は病死や事故死ではなく、なにものかに〈遠い街〉で殺され死を迎えます。「理不尽」、というにふさわしい死の迎え方と言っていいでしょう。なるほど、死は誰にでも訪れるものです。けれども、死が平等なのは自身が死者になってからであって、少なくとも生者はそういう言葉で死を語るべきではないのではないか。そんなことについて考えさせられた、非常に刺激的でおもしろい作品でした。

    • ❖取り上げた作品
    • ・灰谷魚「死と教育」https://note.com/haitani/n/n4d6701afc1b2(二〇二一年九月三日閲覧)
    • ❖取り上げた作品の著者について
    • ・灰谷魚 Twitter https://twitter.com/sakanasama0824
    • ❖参考文献など
    • ・碓井真史「子供の死生観と教育」http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/koneko/2005/siseikan.html(二〇二一年九月三日閲覧)
    • ・貫井一美「バルデス・レアル作 〈虚無のアレゴリー〉〈救済のアレゴリー〉 ~ヴァニタス画に描かれた「本」の持つ意味~」(「清泉女子大学キリスト教文化研究所年報」二三巻、二〇一五年)
  • 論考

    遠野遥「破局」論――「父親的なるもの」を希求するテクストとしての「破局」

    陽介は作中において少なくとも二度、子供の注視を受ける。一度目は、〈泣きながら「本が、本が」と叫んでい〉る子供の、二度目は、〈タクシー〉に轢かれそうになった子供の注視である。

    両者のシチュエーションを整理すると、子供の注視を集めている以外に、もうひとつの通底する特徴があることがすぐに了解されることだろう。すなわち、子供はひとりでいたわけではなく、「父親とおぼしき人物」とともにいて、「スカートを履いた子供」と描写されている、ということだ。ここに母親は出てこず、また、子供についても「スカートを履いた女の子」とは記述されない。後者については、「破局」の作者である遠野がデビュー作の「改良」で「女性の格好をする男性」を描いたことを踏まえると贅言を費やすまでもないように思われるが、母親の不在、という点についてはいささか着目の余地があると思われる。理由としては、麻衣子が幼いころ陽介によく似た相貌を持つ侵入者と出会したのも、母親の不在時だったからである。そうしてまた、陽介が自身の父親について言及する箇所はあっても、母親について言及する箇所はない。詳細な考察は別の機会に譲るとしても、「母の不在」は、「破局」を特徴づける要素であると言っていいのかもしれない。

    さて、この父親と子供であるが、その様子は外見的にも、そうしておそらく気質的にもあまり似ていないといってよい。しかし、両者のあいだに少なくともひとつは共通項をあげることができる。何か、といえば、「父親と子供が歩くときは手を繫いでいる」という共通点である。

    ①子供は黒いスカートを穿き、男と手を繫いでいた。
    ②子供はその間、意見を求めるように私の顔をじっと見ていたが、やがて男に手を引かれて再び歩き出した。

    共通点が少ないぶん、「破局」における「父親的なるもの」「子供的なるもの」の関係は、この「子供を誘導するために手を繫ぐ」という場面に、いわば凝縮していると言ってよいだろう。

    ところで、これによく似た動作が出てくる箇所がある。麻衣子が陽介の元を深夜訪れる場面である。

    麻衣子が私の手を取り、廊下の奥へ引っ張っていった。灯をつけていない家の中は、ほぼ真っ暗と言ってよかった。でも麻衣子は一切ためらうことなく廊下を歩いた。

    特に先の引用②と比較すると、子供の意志を振り切るようにその手をつかみ陽介にとってどこへともしれないところへつれていく父親らしき人物と、陽介の意志など我関せずというようにその手を取り真っ暗な場所を突き進んでいく麻衣子のあいだには奇妙なほどの類似が見受けられると言ってよい。

    これを踏まえると、ひとつの仮説を簡単に立てることができるだろう。すなわち、麻衣子がこの場面では「父親的なるもの」として、そうして陽介が「子供的なるもの」として造形されているのではないか、という仮説だ。そうして、この仮説に基づくと、陽介がさしたる抵抗もせず、麻衣子と性行為に及んだ理由も簡単に説明がつく。陽介は、父親の〈思い出はほとんどない〉と言いながら、〈女性には優しくしろ、と口癖のように言っていたのだけはよく覚えてい〉て、そうしてその理由もわからないままそれを遵守しつづけている。陽介は、彼が知っている唯一といっていい「父親的なるもの」に、おどろくほどに従順であるのだ。つまり、この場面で麻衣子がいかにも父親的なふるまいに及んだから、陽介は抵抗の意志を失ったのだ、というふうな脈絡を立てることが可能になってくるのである。

    また、麻衣子が陽介の〈胸に顔をうずめた〉とき、陽介の〈心臓に向けて語りかけるように喋った〉ことも、陽介が麻衣子に絆された一因としては考慮にいれるべきである。陽介は灯が自身の〈性器とおしゃべりをすること〉に対し、〈仲間外れにされているよう〉な気持ちを覚えている。これに対し、〈心臓に向けて語りかけるように〉とは、まさに陽介を陽介たらしめる部分について語りかけているのと同義だからである。

    さらにもう一点、〈麻衣子が私の手を取り、廊下の奥へ引っ張ってい〉く直前の、〈陽介くん、汗のにおいがするね〉という台詞についても言及しておきたい。陽介は、自身のにおいに敏感であり、佐々木の家につくと真っ先にシャワーを借り、〈体が臭うと周囲の人間にも迷惑がかかる〉と言っている。そんな陽介が、かつての恋人に〈汗のにおい〉を指摘され、はたしてなんとも思わなかったということがあるだろうか。作中に具体的な文言は出てこないためあくまで仮説にとどまるが、この言葉によって陽介は動揺し、幼い子供のように、麻衣子に〈廊下の奥へ引っ張ってい〉かれるような状況が現出した、と考えることもできる。

    さて、次に、麻衣子が過去、暴漢に追い回されたときのことを思い出しながら語っているときの、こんな記述を見てみよう。

    どういうわけか私の中には、お母さんが帰ってくるまでに家に戻らなきゃっていう、強い気持ちがあった。帰ってきて私がいなかったら、たぶんものすごく心配するだろうと思って。

    この心の動きは幾分不思議ではある。なぜ、というに、「お母さんが男と鉢合わせする」ということの剣呑さではなく、「私がいなかったらお母さんが心配する」ということについて、麻衣子の意識は占められているからである。これはただ単に、麻衣子がいかにも親から愛された子供であったことが拝察できる描写にすぎないのだろうか。

    ところが、これと似たような感情に、陽介がとらわれている箇所がある。男を殴って意識不明にしてしまい、それを見ていた〈晴れた日の空に似た色のワンピースを着ていた〉女を追いかけていたものの、〈もと来た道を、引き返そうと思っ〉た時である。その理由を、陽介はこう語る。

    私が動いてしまったら、灯が戻ってきたときに、私を見つけられないからだ。

    この感情は、麻衣子が幼い子供のころに感じたものと同質であると言っていい。すなわち陽介は、この場面できわめて「子供的なるもの」として造形されているのだ。

    男が落とした球が転がっていることに気づき、反射的にそれを拾い上げた。そして、胸の前で強く抱き締めた。本当なら灯を抱き締めたいが、灯は今ここにいないから、そのかわりだった。(筆者略)球は私の力をやわらかく受け止め、抱いているのは私であるのに、私は父親に抱かれているような安心を受け取った。

    陽介が、殴り倒した男が持っていた巨大なバッグからこぼれおちた球を拾い上げる部分である。ここで陽介ははっきりと、「母親に抱かれている」ではなく〈父親に抱かれている〉と書いている。ほんとうに切羽詰まったときに自分を助けてくれる存在として、陽介は、母親ではなく幼いころに失った父親を思い描いているのだ。父親的なるもの、をよく知らないぶん、父親的なるものが理想化されすぎている、と指摘するのはたやすい。しかし、身体的には「立派な男」であると言っていいだろう陽介が、「父親的なるもの」を体感としてよく知らないゆえに、「父親的なるもの」に縛られ、それを希求しつづけている、という構図は、イノセントであるぶん、かえって「破局」の核となる部分であるかもしれないのだ。

  • 論考

    遠野遥「破局」論――ゾンビたち、もしくは〈温かい手〉という福音

    「破局」の語り手である陽介は、精神面ではともかく、身体面では、他者に対してある種の鋭敏さを見せる人物である。たとえば、自身が殴りつけた〈大学生風の男〉に対する以下の描写を見れば、それは一目瞭然であると言ってよい。

    肩幅の広さや胸板の厚さ、首やふとももの太さには目を見張るものがあった。それでいて脂肪はほとんどついていない。おそらく、とても実用的な筋肉だ。(筆者略)日に焼けた逞しい上腕二頭筋がとてもよく映えた。

    そんな陽介にとって、他者というのは、性欲などの主観を排したとき、どのように身体的に把握されているだろうか。ここでは、体温を軸にして見ていきたい。

    丁寧にその記述を拾っていくと、「破局」においては、陽介が誰かの体温を感じる描写が非常に多いことに気づかされる。陽介がはじめて誰かの体温を感じるのは、日課のジョギングの途中で〈道を聞〉いてきた〈外国人の男〉に対してだ。

    男は日本語で礼を言い、私のもとを去った。私は男の左腕に触れながら喋っていたが、汗をかいていたから、控えたほうがよかった。私の体が熱くなっていたせいか、男の腕は冷たく感じられた。

    この文章の直後、パラグラフが変わり、語り手は〈部屋に帰り〉、膝からのメールに〈わからないとだけ〉返信する。すなわち、テクストのうえでは、〈外国人の男〉が去ったあと、いちばん最後まで残る余韻が〈男の腕〉の〈冷た〉さとなる。

    ところで、そもそも陽介は、なぜ〈外国人の男〉の〈左腕に触れながら喋っていた〉のだろうか。たとえば、〈外国人の男〉が盲目であり、安心させるためにその〈左腕に触れながら喋っていた〉という可能性はないとは言えない。しかし、テクスト内部に決定的な根拠を有するような記述は、管見では存在しない。そもそもこの〈外国人の男〉の登場はいささか唐突であり、一見テクスト内部の他の記述と、なんのネットワークも形成しないように思えなくもない。

    これを考えるにあたっては、その他の体温の記述を拾っていく必要があるだろう。「破局」のテクスト中に、「冷」という文字は十三回出てくる。そのうち、接触の際に誰かが感じる「冷」は、以下の四例となった。

    ①麻衣子の手は冷たく、私は思わず身を震わせた。
    ②滑り台が熱を奪ったのか、灯の手は冷たかった。
    ③灯の手はまだ冷えていた。でもすぐに温かくなる。
    ④私は灯の右手を引いて椅子から立たせ、彼女を正面から抱き締めた。体が冷えているのがわかった。

    次に、「熱」について調査した。接触の際の「熱」は、以下の二例である。

    ①勃起した男性器を押しつけられるのは、いったいどんな気分か。(筆者略)熱いか。硬いか。
    ②灯の手にはやけに熱がないけれど、それは私の体温が高いせいかもしれない。

    最後に、「温」についての調査の結果、接触の際の「温」は、以下の一例と、後述する一例の、合計二例であることが判明した。

    ①つい先程まで私の一部だっただけあって、精液は温かかった。

    ここまで引用してみれば、事態は明白であろう。つまり、つねに「破局」において、陽介は、自分をつねに〈熱〉いものとして、そうして、こちらがより重要であるのだが、他者をつねに〈冷た〉いものとして感受しているのだ。七例の出現箇所がすべてそうなっていることから、これは恐らく作者である遠野の意図した結果であろうと思われ、小谷野敦の〈たぶん設定がずさん〉(註1)という読解が、いかに〈ずさん〉なものかを傍証するものでもある。

    さて、陽介が「冷たさ」を感じるのは、灯と麻衣子、つまり恋人の女性ふたりだけだろうか。ここで、先程の〈外国人の男性〉が再度検討の対象に入る。彼は、一瞬袖擦りあっただけの「赤の他人」の「外国人」の「男性」であり、つまり、性差なく、また国籍も関係性の深さも問わず、テクスト中において、陽介は他者の体温を「冷たい」と感じていた、ということが、〈外国人の男〉の〈腕〉の〈冷た〉さによって可能になるのである。

    もちろん、筋肉には熱産生があり、〈ヒトが1日に産生する熱量は、筋肉運動などの活動状態によって大きく変化する〉(註2)ものである以上、陽介の筋肉質な肉体が人より熱いのは当然である。しかしながら、そのことと、彼が他者の体温を「冷たい」と感受してしまい、あまつさえそれを記述してしまう、ということのあいだには、まったく別の意味が生じてくるだけの懸隔があるように思われる。具体的に言うのなら、陽介は、他者との温度差に敏感であった、ということが、散見される「冷たい」という言葉から明らかになるのである

    ところで、作中には「身体的に冷たい」人間を表現する言辞が出てくる。言わずと知れた「ゾンビ」である。それを踏まえ、他人の体温を「冷たい」としか感じることのできない陽介の立場に立てば、陽介にとって他人は、ある意味においては「ゾンビめいた」存在であったのだ、ということが、陽介がどのくらい自覚していたのかはともかくとして、可能となってくるだろう。その一方で、陽介は、ラグビー部の後輩に〈俺は現役だった時、実際に自分をゾンビだと思い込むようにしてい〉た、と言う。しかし、〈思い込むようにしてい〉た、ということは、陽介は、〈思い込むようにし〉なければゾンビになれなかった、ということになる。これは、何度か出てくる自身の相対的な体温の高さについての描写と相俟って、陽介が「ゾンビめいた」存在とは実は一線を画した存在であること、すなわち「人間」であると自認している存在であることを意味しうる。川本直の〈欲望と道徳に反射的に従うだけの陽介は正にゾンビだ〉(註3)という指摘は、客観的な陽介の評価を、ある意味代表するものであろう。これは、陽介の主観と客観の齟齬とも考えられるが、〈現役だった時〉の陽介と今現在の陽介のあいだの変化とも考えられる。たとえば、陽介が大学の部活動としてラグビーをしている描写がない理由は推測することしかできないが、ファストフード店で偶然聞こえてきた、ラグビー部の後輩と思しき人物の、〈「大学じゃ通用しないんだろ。(筆者略)だからいまだにここに来てイキッてんの」〉という台詞は、その後の陽介の混乱ぶりを見るにつけ、当を得ていたのではないか。そうして、そのときの陽介の混乱ぶりは、陰口を叩かれていたことを踏まえても、尋常ではないほどの、と言っていいだろう。その混乱を、特に裏付けているのが以下の場面だ。

    早歩きでまっすぐ駅へ向かい、改札を通り抜けた。エスカレーターの右側を一段飛ばしで上り、閉まりゆくドアを肩でこじ開けて電車に乗った。

    〈マナー〉を遵守する性分であるはずの陽介が、ここでは、〈エスカレーター〉を〈一段飛ばしで上り〉、発車間際の電車に無理やり体をねじこみ乗り込む、という、〈マナー〉に照らせば明確な違反行為を行っている。そうして、自身の〈マナー〉違反を咎めるような〈舌打ち〉をした人物に、苛立ちを隠さない。陽介は、他人の〈マナー〉違反については、たとえ内心でどう思っていようとも、実はそこまで不寛容であるような「そぶり」を見せることはない。たとえば、未成年であるにもかかわらず〈シャンパン〉を口にした灯に対しては、〈私はそれについて何かを言おうとして、途中で何が言いたいのかわからなくなってやめた。〉とあるし、また、深夜突然の来訪をした麻衣子を結局は自身の部屋に通してしまう場面なども、その一例としてあげられるだろう。にもかかわらず、ここでは、自身の〈マナー〉違反を棚上げして、〈ドアに手をついて〉男の〈逃げ場をなく〉すような、強引な行為に打って出る。平生の陽介のふるまいとは、大きな違いがあるとみていいだろう。

    本テクストにおいてゾンビは、何も口述することのない存在である。ゆえに、これはあくまで仮定ではあるが、「人間」である陽介は、「ゾンビめいた」存在であるはずの後輩たちの、「陰口」という、「ゾンビめいた」存在らしからぬふるまいに、あるいは、「ゾンビめいた」存在の「陰口」をストレートに読解できる自身に過剰に動揺したのではないか。だからこそ彼は、自身を「ゾンビめいた」存在であると認めないために、彼らからじゅうぶんな身体的な距離を置いたうえで〈先程食い損ねたのと同じファストフード店〉(註4)に入り、〈チーズバーガーと魚のバーガー、それからチキン、珍しいパイ〉を、大量の食べ物を食らうのだ、と考えられる。ゾンビはヒト以外のものを食べないが、人間は、ハンバーガーやチキン、そうして珍しいパイを食べるからである。

    さて、物語の終盤、陽介とおなじような体格の男性が、陽介に殴られ意識不明におちいる場面がある。もし、しみの述べるように、単に意識不明におちいっただけではなく、〈(恐らく)男は絶命した〉(註5)のならば、そうしてその可能性はかなり高そうにも思えるが、「死」は「冷たくなる」と言い換えが可能なのであるから、ここにも「冷たさ」が、それも、意味的には最上級の「冷たさ」が生じる。陽介がラグビー部の後輩に対して投げた言葉としては、このようなものもある。

    ゾンビは痛みや疲れなんて感じない。死んでるわけだから、何もわからない。

    しかし、無論地上に活動している人間は「生きてる」はずであり、陽介が感じないだけで、否、感じることができないだけで、彼らにも体温がある。だからこそ、「死」は「冷たくなる」(=もともとは「温かかった」)と表現されるのである。そうして、陽介はそのことをきちんと自覚する。〈晴れた日の空に似た色のワンピース〉を見たのち、〈空をこんなふうに見上げるのは久しぶりで、私はこれを、もっと早く見るべきだったと知った〉とあるのは、表面をなぞるような目線が、事物の本質に触れる目線へと変化したことを示すもの、と考えてよいだろう。そうして、最後、陽介の〈体〉は〈優しく押さえ〉られる。自身を〈優しく押さえてい〉る手について、陽介はこう表現する。

    彼の手はとても温かく、湯につかっているかのように、心地よかった。

    陽介の身体的な価値基準は、最後の最後にさりげなく、しかし見事なまでにうつくしく顚倒し、彼は、自身の周囲にいるのが「ゾンビ」ではなく「人間」であることを、心ではなく体で、はじめて理解することができたのだ。


    • (註1)小谷野敦「ハクチ感が漂う」https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2JFD05MVIJUYG/ref=cm_cr_getr_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=B08BNJJC5L(二〇二〇年七月三〇日、二〇二〇年八月二二日閲覧)。なお、陽介の実家が〈東京にありそう〉なことを前提に小谷野の評は進められていき、陽介が一人暮らしをしていることで〈たぶん設定がずさん〉という結論に落ち着いているが、現在陽介の実家が〈東京にあ〉ることを示す文言は、テクスト中には一切見られず(陽介は母子家庭である可能性が高く、彼の大学進学を機に、母親は自身の実家に戻り、陽介ひとりのみ東京に残っている、などというパターンは十分に〈ありそう〉である)、〈ありそう〉〈たぶん〉などという留保つきで進めていく、あたかも「多分といえば嘘をつかなくてすむ」という格言に似た論評の手つきを抜きにしても、小谷野の評言が〈ずさん〉であるという謗りは、残念ながら免れないだろう。
    • (註2)「体温」https://home.hiroshima-u.ac.jp/mededu/pdf/download/体温.pdf(二〇二〇年八月二一日閲覧)
    • (註3)川本直「我々は空虚なゾンビであり、空虚なゾンビは我々である――遠野遥論」(「文學界」二〇二〇年九月号)
    • (註4)「破局」には、灯が〈ファーストキッチンでポテトを食べ〉る場面がある。しかしながら、陽介が入ったファストフード店は、ファーストキッチンなのかマクドナルドなのかモスバーガーなのか、具体的には書かれていない。しかし、このことにより、〈先程食い損ねたのと同じファストフード店〉という表現が可能となってくる。
    • (註5)しみ「ゾンビ、ごめん。」(「note」https://note.com/southern6344/n/ne76018179a9b、二〇二〇年七月一三日、二〇二〇年八月二二日閲覧)
  • 論考

    遠野遥「破局」論――「破局」における擬人法とその展開

    「破局」は、すでに三好愛や佐川恭一らが指摘している(註1)(註2)ように、非常に特異な擬人法が登場するテクストである。三好と佐川が指摘している個所を、前後も含めて少し引用してみよう。

    ①今日まで私の性器を守っていたこの陰毛は、抜け落ちた今、ただのゴミになろうとしていた。文句も言わずに仕事をしてきたのにあんまりな仕打ちだと思い、私はこの陰毛をなんとかしてやりたくなった。何か使い道はないだろうか。たとえば小銭入れに忍ばせておいたらこの先一生女に困らないとか、そういう効果はないだろうか。あってほしかった。しかし小銭に陰毛が混じっているのはどう考えても不快だった。
    私は彼を、床に落とした。床に落としてしまうと、彼はもうどこにいるのかわからなくなった。
    ②ひとつだけやめて欲しいのは、セックスの最中、私の性器とおしゃべりをすることだ。性器に話しかけるときは敬語を使わないから、私に言っているのではないとすぐにわかる。(筆者略)話しかけられているのは私の性器であって私ではないから、当然私は返事をしない。性器も性器だから返事をしないが、灯は構わずひとりで会話を続ける。(筆者略)なんだか仲間外れにされているようで面白くなかった。

    ところで、擬人法とは、そもそもどのような技法であろうか。秦恭子は、S・ミズンや中沢新一の論を踏まえ、〈「人を動植物として」あるいは「動植物を人として」重ね合わせて思考する擬人法は,古来より,自然界との調和的な生活を築いていくための「共感をともなった謙虚な知性」や生命倫理を人間社会の中に生み出してきた。〉(註3)とまとめている。〈陰毛〉の擬人化の前半は、まさにこの秦の〈「共感をともなった謙虚な知性」〉なる記述をなぞっているように、「〈私の性器〉が〈守〉られていたという〈謙虚〉さ」と、「〈ゴミになろうとしてい〉るのを〈あんまりな仕打ちだと思〉う〈共感〉」に充ち満ちている。しかしながら、その共感は持続しない。陽介は〈彼〉を〈床に落とし〉〈どこにいるのかわからなく〉してしまうからである。

    いっぽうで、上記二例の擬人法は、〈「人を動植物として」〉扱うものでも〈「動植物を人として」〉扱うものではない。人の肉体の一部(それも、脳や心臓ではない一部)が、あたかも「人格」とされるような何かを有しているかのように描写する、というものだ。

    このような描写をしているテクストとして想起されるのは、たとえば、ヤプーズの「12階の一番奥」の以下のような歌詞である。

    指や唇とかは嘘を見抜くのが下手 羨ましいくらいに信じる(註4)

    「12階の一番奥」においても、人の肉体の一部(それも、脳や心臓ではない一部)が、あたかも「人格」とされるような何かを有しているかのように描写されており、更に言うのなら、この両者にはそれ以上の共通点がある。いったいそれはなにか。ヒントとなるのは、佐川恭一の、以下のような指摘であろう。

    「性器も性器だから返事をしないが」なんて並の人間が二億年考えても書けなくないですか?ここは普通なら「当然私は返事をしない。それでも灯は構わず~」って続けると思うんですよね。(註5)

    この指摘が非常に示唆に富んでいるのは、〈性器だから返事をしない〉という部分が、〈私は返事をしない〉と〈普通なら〉言い換え可能であることに言及している点である。「12階の一番奥」においてもこれは同様でありそうに見える。

    ところで、「12階の一番奥」において〈嘘〉とはどのような機能を担うものであろうか。この曲の冒頭のフレーズは、〈嘘だと嘘だと 言ってられれば 安心してられる〉であり、それと呼応するように〈信じない〉という言葉が何度も用いられている。つまり、「12階の一番奥」の語り手にとって〈嘘〉でないこと、〈信じ〉るに値するような善きものの存在を、語り手は、頑是ないまでに認めようとしていないのだ。「愛」と一般的に呼ばれるものについても〈信じない〉ゆえに語り手は、たとえば「私は嘘を見抜くのが下手。指や唇に翻弄される」などと言うことができない。〈指や唇〉が、第三者を――おそらくは恋人を〈信じ〉るなかにあっても、語り手はそれを〈信じない〉と言いつづける、というのが、〈指や唇とかは嘘を見抜くのが下手 羨ましいくらいに信じる〉という部分の内実だ。ここにあるのは、語り手の意識と肉体的な認知に基づく感覚との間のずれである。結果として、「思考する語り手」と「感覚する語り手」とも言うべき、ふたりのまったく別の「人格」を有する語り手のふたりが、ここには存在することになる。

    これを踏まえたうえで、「破局」の性器の比喩はどうか。引用のとおり、陽介は灯と自身の性器の会話を〈仲間外れにされているようで面白くなかった〉と記述している。陽介にもまた、自分の〈性器〉を、完全に自分とは切り離された他者のように見る目線があるのだ、ということができる。そうして、テクストの後半部、灯に別れを切り出される朝の、〈灯は(筆者略)私にキスをした。それから私の性器にもキスをし、少し口に含んだ後で、何か声をかけた。彼らだけの内緒話のようで、私には内容が聞き取れなかった。〉という箇所を見ると、陽介の中で〈性器〉を他人と感じる比重は、益々増えているように思われる。〈性器も性器だから返事をしない〉の場面では、〈性器に話しかけるときは敬語を使わない〉と陽介は言っていた。すなわち、話の内容を聞き取ることができていたと考えられる。ところが、灯に別れを切り出される直前に灯が〈性器に声をかけ〉る場面では、〈内緒話のようで、私には内容が聞き取れなかった。〉と言っているのである(註6)。おなじ〈性器〉を他者のように扱っている場面でも、その距離感において、両者には大きな差異があると言ってよい。これが、自身の中にある他者性が、つまり自身に理解不可能な部分が漸増していることを示すのは論を俟たない。

    もう一点、「破局」において、陽介の〈性器〉を擬人化しているのは陽介だけだろうか。むろんそうではない。〈私の性器とおしゃべり〉をし、〈私は返事をしな〉くても、〈構わずひとりで会話を続ける〉灯もまた、陽介と同様、陽介の〈性器〉を擬人化し、陽介とは異なる「他者」として会話している、と言ってよい。そうしてよくよく考えてみるとこれは、灯が、自身の〈性欲〉について葛藤する描写と接続するように思われる。

    正直に言って、私は相手が陽介君じゃなくてもいいと考えるようになっていたんです。大学とか電車で筋肉質な男の人を見ると、あ、抱いて欲しい、って自然に考えるようになっていたんです。でもそのたびに私には陽介君がいるからって、そんなの絶対にいけないし、心の中で思うだけでも陽介君に対する裏切りになるって思ってたんです。だから私はいつもポケットに安全ピンを入れておいて、そういうことを考えそうになると、それを自分の指先に刺してたんです。

    自身の〈性欲〉と、その〈性欲〉を許しがたいと考える灯が同時に存在していることが述べられており、いわば、「自身の中にある他者としての性」を灯が有していることが、ここでは明らかになる。また、この直前には、〈北海道に行ったとき、相談しましたよね。そういうことをしたいって気持ちが日に日に強くなってるって。でもあの日、本当に言いたかったことは言えなかったんです。〉と灯が陽介に告げる場面がある。陽介の性器との会話を踏まえると、その台詞は、灯が「自身」と「自身の中にある他者としての性」と〈内緒話〉をしていたのだ、と換言することが可能となるだろう。このように、「破局」における擬人法のあり方は、登場人物が抱える自身のなかにまぎれもなくあるにもかかわらず自身には制御不可能な何かを描出する、いわば「伏線」としても展開し、その伏線がもたらす展開は、故きを温ねる言い方をするのなら登場人物に「奥行き」を、そうではない言い方をするのなら、「人間というものの本質にある底の知れない不気味さ」を、テクスト内において実現する、たとえばひとつの柱となっているのだ、ということは間違いない。


    • (註1)「Twitter」(二〇二〇年八月一四日、二〇二〇年八月二一日閲覧)
    • (註2)「Twitter」(二〇二〇年七月二三日、二〇二〇年八月二一日閲覧)
    • (註3)秦恭子「比喩の授業による環境教育の可能性 ―「真の隠喩」としての擬人法に着目して―」(「日本教育学会誌」二〇一六年三月)
    • (註4)ヤプーズ「12階の一番奥」(『Dadada ism』二〇〇二年、戸川純作詞、ライオン・メリイ作曲)
    • (註5)「Twitter」(二〇二〇年七月二三日、二〇二〇年八月二一日閲覧)
    • (註6)なお、この場面の直前、激しいセックスの末、陽介が灯に求められても、ついには性器を勃起させることができなくなっていたことも思い起こすべきだろう。陽介の意志を裏切る存在、つまり、陽介の意志の容喙しえない存在として、〈性器〉が描かれているのだ。
  • 論考

    遠野遥「破局」論――飲食の位相(2)茄子色の、ハムのような色の、チョコレートケーキと似た色の

    「破局」の登場人物のひとりである麻衣子は、つねにワンピースを着た存在として描写される。

    特別な場合を除けば、麻衣子はワンピース以外の服を着ない。実に多くのワンピースを持っていて、同じ月に同じワンピースを着ることはない。

    恋人である陽介がこう断言するほど、麻衣子はワンピースと密接な関係を切り結んでおり、それゆえに、川本直をして、物語のラストで、屈強な男を意識不明に陥らせた陽介を警察に通報したとおぼしき〈「知らない」ワンピースの若い女が誰なのか疑問が湧く〉(註1)とまで言わしめるほどなのだ。

    〈「知らない」ワンピースの若い女〉の正体について考察を深めるのは今後の課題とするとしても、作中におけるワンピースの描写には注意を払うべき点が多い。すなわち、麻衣子のワンピースを描写するにあたり、陽介が発揮する、独特の感性についてである。具体的には以下のとおりとなる。

    ①今日のワンピースは茄子のような色をしていて、ピンク色の小さな花が、茄子を隠すようにいくつも咲いていた。
    ②ハムのような色のワンピースを着た女が立っていた。麻衣子だった。
    ③麻衣子が今日着ているワンピースは、チョコレートケーキと色が似ていた。しいていえば、ワンピースのほうが色が薄い。

    ただ単に紫、桃色、焦げ茶色、などとするものではなく、その色を何かに擬えている。その擬えは、別項で考察する予定である陽介が用いる擬人法と同様に、どことないおかしみを催すもので、たとえば小川公代は、この箇所を引用しつつ、「破局」を〈ユーモアといい、小説の真実性、声、アイデンティティの大胆な”実験”といい、ローレンス・スターン的〉(註2)なテクストであると述べている。

    ところで、こうしてワンピースの描写を三つを抽出してみると、ひとつの通底する特徴が見えてくる。すなわち、ワンピースが擬えられている〈茄子〉も〈ハム〉も〈チョコレートケーキ〉も、みな食べ物だということである。具体的にひとつずつ見てゆこう。

    まず、〈茄子のような色〉のワンピースについてであるが、これを考えるに当たって、語り手にとって茄子がなんらかの意味をもつものであったのか、確認しておきたい。本文中に〈茄子〉という語は二回出てきて、それらはいずれも麻衣子のワンピースを形容する色である。すなわち、語り手が茄子に対して良きにしろ悪しきにしろ、なんらかの思い入れを見せる場面は「破局」においてはない。

    思い入れ、と言えば、陽介は〈ワンピースは茄子のような色をしていて、ピンク色の小さな花が、茄子を隠すようにいくつも咲いていた〉と印象的な形容をしながらも、このワンピースにはほとんど思い入れを感じてはいないようである。なぜなら、陽介はこのワンピースを〈初めて見るワンピース〉だと思っていたが、のちほど〈ワンピースの色〉を陽介が〈褒め〉れば、〈前に着た時も褒めてくれた〉と麻衣子に返されるからである。詳細を論ずるのは別の機会に譲るとして、陽介は、自身の関心のないことには記憶力を発揮しない(ように見える)人物であるが、ここでもそんな陽介の性質は遺憾なく発揮されていると言ってよい。

    なお、〈茄子のような色〉のワンピースを褒めた直後、麻衣子がシャワーを浴びている間、陽介が全裸で窓辺に立ち、〈自慰〉を行う場面がある。その際に、こんな表現が出てくる。

    観覧車の光が、私の性器を紫に染め、それから青く照らした。私は私の性器がさまざまな色に変化するのをしばし楽しみ、

    〈茄子のような色〉とはおそらく〈紫〉であり、さらに陽介が着目するのが、麻衣子の〈さまざまな色に変化する〉ワンピースの、特にその色であることを鑑みると、ここで陽介は、疑似的な麻衣子とのセックスを楽しもうとしているように見えなくもない。ただし、最終的に陽介が〈自慰〉の際イメージするのは、灯の〈白い脚〉なのであるが。

    さて、つづいて麻衣子が見せるのは、〈ハムのような色のワンピース〉姿である。作中には、陽介が〈ツナやハム、チーズなどを載せたトーストを何枚か食べ〉る場面が出てくる。陽介にとっては、ある種日常的に、特に深い感慨もなく食べるもののひとつとして、〈ハム〉はあると位置づけられる。そうして、同じ種類の〈トースト〉を何枚もつづけて食べるところに、陽介にとってはこの朝食の摂り方が、習慣化された行為なのではないか、という推測を立てることが可能である。この推測は、彼がきわめて規律的に行動していることからも、蓋然性が高いように思われる。

    ところで、それでは、麻衣子の着ていたワンピースを〈ハムのような色〉ととらえる陽介の心理は、いったいどんなものだと考えられるだろうか。陽介と麻衣子の関係性を振り返るなら、ふたりは元恋人であり、なおかつメダカのエピソードから、幼馴染でもあったことが本文からはわかる。過去のことを述懐する麻衣子の、〈陽介くんの家もきっと見えた。〉というセリフからは、麻衣子が陽介の家をいまは知っている、すなわち家の往来をするくらいに仲がよかった二人の姿が浮かび上がり、また、〈「そう、生き物係。でも、そのことを覚えてるのって、もう陽介くんくらいしかいないんじゃないかな」〉という麻衣子の台詞にも、いささか特別なくらいに特別なふたりの親密さがうかがえる。また、元恋人という関係上、ふたりは恋人だった当時は互いの家を往来するような間柄であっただろうことは、灯と陽介との関係を見れば想像がつく。

    そんな麻衣子のワンピースに対し、陽介は、自身の習慣に組み込まれた〈ハム〉を、〈ハムのような色〉を見る。ここでは、ふたとおりの可能性があることを指摘しておこう。すなわち、ワンピースを見た瞬間に、陽介は、彼にとっていまやなじみとなった灯が来訪したのではないか、と一瞬錯誤したという可能性、もしくは、元恋人である麻衣子がいずれ自分のもとを訪問するのを、心のどこかでなんとなく予期していたという可能性、その両者である。ただ、後者はもとより、前者の場合ですらも、陽介のなかに麻衣子が、たとえば〈アオイだとかミサキだとかユミコだとか、とにかく別の女〉とは違い、影を落としていた、ということになる。そのような影乃至は予感のせいだろうか、陽介は大した抵抗もせずに麻衣子の押されるがままにセックスをすることになる。

    さて、それでは三つ目のチョコレート色のワンピースはどうだろうか。チョコレートケーキは、陽介にとって特別な食べ物である。それは灯と付き合う前に陽介が〈好きって言ってた〉食べ物であり、灯に初めてふるまわれた手料理であるからだ。そうして、灯に初めてふるまわれた手料理であるかどうかはともかく、陽介がチョコレートケーキを好きなことは、麻衣子にも共有されていた。〈ケーキを好きなだけ買ってあげる〉と言った麻衣子が陽介にまず〈買ってあげる〉のが〈チョコレートケーキ〉だからである。

    このように見ていけば、ひとつの事実が明白に浮かび上がるように思われる。つまり、麻衣子のワンピースの色は、語り手の好物にどんどん接近しているのだ。

    これらを踏まえたうえで、改めてこの〈チョコレートケーキと色が似てい〉るワンピースについて考えてみると、そこにはひどく興味深いものがある。麻衣子は陽介がオーダーする前に彼の好物であるチョコレートケーキをオーダーしていることからもわかるように、陽介の好物を知っていた。また、〈三田〉の〈カフェテリア〉なのだから、当然そこで販売されているチョコレートケーキの微妙な色合いなどにも通暁していたことだろう。そのうえで、〈実に多くのワンピース〉の中から〈チョコレートケーキと色が似てい〉るワンピースを――それも〈しいてい〉わなければ、色としては区別がつかないほどに酷似した――着て陽介を待ち、陽介のためにチョコレートケーキをオーダーした。実際の出来事なら偶然の一致で片づけるべきことだが、テクスト内においてこのような一致が起きるとき、そこには意味を見出すべきである。すなわち、ここで麻衣子は、陽介の気を惹こうとしていた、と考えるのがごく自然だ、ということだ。それが、いまだ麻衣子のなかに残存する恋愛感情に基づくものか、あるいは復讐心や嫉妬という負の感情に由来するのかは不明である。語り手である陽介によって描かれる世界像を見ているだけの読者には、ましてや、〈麻衣子はネガティブな感情をはっきりと言葉にせず、遠回しに伝えることが多い〉ゆえ、陽介には、〈麻衣子の言動を深読みする癖がついてい〉るほどなのだ。麻衣子が感情を激しく吐露するタイプの人物ではない以上、彼女の様子から、その真意を探るのは、非常に難しいと言わざるを得ない。ただし、実際問題として、陽介が〈チョコレートケーキと色が似てい〉るワンピースを着た麻衣子が去ったあと、麻衣子のワンピースの色とおなじ〈チョコレートケーキをひとくち食べ〉、あまつさえ、麻衣子が〈半分ほど残していった〉〈アイスコーヒー〉を〈飲み干〉す、という運動が、如上のとおり、テクストの内部で惹起されたことはまた確かなのだ。

    最後にもう一点、灯が麻衣子との邂逅を振り返るシーンで出てくるワンピースを見ておこう。ここで灯は、〈桜色のワンピースがとても似合っていて〉と、あたりさわりのない表現で麻衣子を褒める。そうして、二人が出会ったのは、〈私にあの人のことがうまく理解できているとは思えないから〉〈偶然なのかどうかはやっぱりよくわか〉らない、と言う。

    もし仮に、だが、そうしてそれは十分にありえそうなことだが、二人が陽介の最寄り駅で出会ったのが偶然ではなかった、という視座に立つときには、見えてくるものがある。麻衣子が着ていた〈桜色のワンピース〉についてだ。〈桜色〉とはどんな色だろうか。一応確認しておくならば、それは、〈R:253、G:238、B:239〉(註3)で表現される〈vp-PR(ごく薄い紫みの赤)〉(註4)だと言う。これは、陽介に言わせれば〈ハムのような〉となる色ではないだろうか。だとすれば麻衣子は、灯とすでに付き合っている陽介とセックスをしたときと、完全におなじ服(註5)で、灯に偶然を装い会ったということになる。麻衣子は〈実に多くのワンピースを持ってい〉ると陽介は言うが、陽介のワンピースの描写が色彩に偏っていたことを想起すると、ここでの〈実に多くの〉は〈実に多くの色の〉と換言できるだろう。ということは、〈ハムのような色〉のワンピースも何着も持っていないのではないかという仮定が成り立つ。

    もう一点はっきりすることがある。それは、麻衣子にとって、陽介と一夜をともにしたことを灯に告白することは、なんら〈特別な場合〉ではなかった、ということだ。〈特別な場合を除けば、麻衣子はワンピース以外の服を着ない〉とはすなわち、〈特別な場合〉には〈ワンピース以外の服を着〉る、ということである。しかしここでは、それをしていない。

    これらを踏まえて出てくる麻衣子像は、いったいどんなものになるだろうか。灯という恋人がいることを知りながらも元彼である陽介と不貞を働いたときの格好で灯に会い、そうして、そこにはいっさい特別なことなどないというふうに不貞を告白する。それは、死んだはずの恋をむりやりに蘇らせつづけ、〈ゾンビのような姿を露わに〉(註6)させつづける、何ほどか呪術師めいた麻衣子の姿である、と言えるのかもしれない。一方で、別項で論じる予定であるが、麻衣子はまた別の貌ももっている。登場人物ひとりひとりに解釈の多様性を与えている、という意味でも、「破局」は読みごたえのあるテクストとなっていると言ってよい。

  • 論考

    遠野遥「破局」論――飲食の位相(1)登場人物をめぐる「飲み物」

    あるテクストにおいて、なんらかの飲み物が登場することは決してめずらしいことではない。そうして、その飲み物が、登場人物の個性を表象する役割を担うこともしばしばある。ところで、「破局」においてもまた、水、カフェラテ、アイスコーヒーなどの飲み物が登場する。それらはテクストにおいて、なんらかの機能を担ったり、テクストの運動の補助輪となったりするものだろうか。

    まず注目すべきは、陽介と灯が接近したきっかけである。陽介は、漫才の途中、灯が〈口元に手をあて、前屈みになって下を向いてい〉ることに気づき、灯に声をかけ、彼女を〈校舎の外に〉連れ出す。なぜ灯が下を向いていたのか、と言えば、〈カフェラテを飲ん〉で気分が悪くなったからである。

    味自体はすごく好きなんですよ。飲み物の中で一番好きなくらいに。

    そう灯は言う。〈すごく好き〉なものによって体調にきずをつけられてしまう灯がここでは描かれているが、とはいえ、別の見方をすれば、カフェラテは灯と密接に結びつけられるアイテムということでもあり、陽介と灯の関係のきっかけには、ひとつの飲み物があった、ということが可能となる。

    気分が悪くなった灯に、陽介は〈自動販売機で水と温かいお茶〉を買ってくる。灯は〈水をたっぷりと飲み〉、陽介もまた、〈喉が渇いているとわかり、彼女が選ばなかった温かいお茶を飲〉む。詳細については後述することになるが、ここで注目しておきたいのは、水はつめたいものであり、お茶は温かいものである、というその「温度差」である。ふたりは異なる温度のものを飲み、そうして、〈キャンパスを出て、駅の反対側にあるカフェに入〉る。そこでも、ふたりは飲み物をオーダーする。オーダーしたのは陽介が〈アイスコーヒー〉であり、灯は〈温かい紅茶〉である。先ほどと温度が顚倒しているが、温度差があることには変わりない。この日は何事もなく、二人は別れる。

    二人が再会するのは、陽介の公務員試験の筆記試験が終わったその日のことである。陽介と灯は、陽介が〈日吉に住んでいた頃、気になってはいたものの、結局一度もいかなかったパスタ屋〉を訪れる。〈いくつかの前菜とパスタ、ピザと肉〉のほかに、二人は飲み物をオーダーする。陽介は〈アイスコーヒー〉を、灯は〈ジンジャーエール〉を、という選択だ。ここで二人がオーダーしているのは種類は違えど同じようにつめたい飲み物であることは、論を俟たない。そうして、しばし陽介は膝の話を灯にしたあと、トイレに行き、〈黒い虫〉を触ってしまうのだが、汚れた手をどうすべきか、そんな迷いを抱えながら席に戻ってきた陽介を待っているものがある。すなわち、〈食後のコーヒー〉である。そうして、〈食後のコーヒー〉は、むろん灯の前にも、おそらく陽介のそれと同じようなカップで、同じような温度で提供されていて、彼女は〈コーヒーカップを両手で持ち、自分のふともものあたりを見つめ〉ながら、自分の部屋に〈チョコレートケーキ〉を〈食べに来ませんか〉と、一人暮らしをしているアパートに陽介を誘うのだ。同じ温度の同じ種類の飲み物が、陽介と灯の距離を縮めるのである。そうして、陽介が、麻衣子という恋人がありながら灯にキスをしてしまう直前に、二人が一本の同じ〈シャンパン〉を飲んだことまで見てみれば、陽介と灯の距離や関係を把握する「小道具」として、「飲み物」がいかに有益な判断材料となるかは、火を見るよりも明らかであろう。

    それでは、陽介と麻衣子との関係においてはどうだろうか。

    彼女は陽介が自分と別れ、灯と付き合いだしたのち、深夜、陽介の部屋をアポイントメントもなしに訪問している。そのとき、彼女はエクスキューズとして〈お酒〉を持ち出す。

    「遅くにごめんね。終電を逃しちゃったみたいなの。お酒を飲んでいたものだから、少しぼんやりしていたみたいで。急で申し訳ないんだけど、泊めてくれないかな」

    >ここでの〈お酒〉が果たす機能は、多くのテクストにおけるそれと同様である。すなわち、飲んだものを酩酊させ、正常な判断力を奪うという機能である。

    酩酊、ということでは、麻衣子がそうなる以前に、膝が自身の引退ライブ後、著しく酩酊した姿を見せていた。

    ふと、校舎から膝が出てくるのが見えた。膝はひとりだった。右手に何かの缶を持っていて、膝のことだからきっと酒だ。歩き方や顔つきからして、今さっき飲み始めたばかりとは到底思えず、ライブが始まる前から飲んでいたに違いない。

    それに比べると、麻衣子は、陽介の家にはきちんとたどりついており、また、足取りもしっかりしており(註1)、あまつさえ陽介とセックスに及びさえする。これはあくまで仮説であるが、麻衣子は実際には酩酊をしているふりをしていただけで、ただ陽介に会いたくて、その口実として「酩酊」を利用したのかもしれない。ただし、本考察においては、麻衣子が実際に酩酊していたか否かが藪の中であろうと一向に問題はないと考える。〈お酒〉というものが、ある種の作用をもたらすものという前提が何ら妨げられることなく、テクスト中で機能しているからである。

    深夜の突然の訪問の次に、陽介が麻衣子に会うのは〈三田〉の〈カフェテリア〉においてである。この日は陽介の公務員試験の筆記試験の合格発表の日であり、麻衣子は陽介の合格のお祝いにだろう、〈ケーキを好きなだけ買ってあげる〉と〈言〉う。

    それを断ってアイスコーヒーを買いに行った。すると、麻衣子も財布を持って私の後を追いかけてきた。(筆者略)麻衣子が私の前に出て、アイスコーヒーとチョコレートケーキを買った。(筆者略)
    麻衣子が自分のアイスコーヒーを飲みながら

    麻衣子は〈ケーキを好きなだけ買ってあげる〉とは言ったが、「飲み物を好きなだけ買ってあげる」とは言っておらず(少なくともテクストの内部では)、また、これに続く記述を見ても、〈アイスコーヒーとチョコレートケーキを買った。〉という箇所が、「アイスコーヒーを2つとチョコレートケーキを買った。」なのか「アイスコーヒーを1つとチョコレートケーキを買った。」なのかは不分明である。しかし、少なくともここで、麻衣子は陽介が買おうとしていた飲み物を選択し、それを口に運んでいる。むろん大学四年生の男女が〈カフェテリア〉でオーダーするものとして、〈アイスコーヒー〉はもっとも一般的な飲み物のひとつと考えてよいだろう。しかし、麻衣子が席を立ったあとの以下の箇所はどう説明するべきか。

    麻衣子が買ってくれたチョコレートケーキをひとくち食べた。麻衣子はアイスコーヒーを半分ほど残していったから、かわりに私がそれを飲み干した。

    もう恋人ではない女性の飲み残しのアイスコーヒーを飲む、というのは、陽介のぎちぎちの〈マナー〉観に照らせば、違反的な行為であるように思えなくもない。にもかかわらず、陽介がそのような行為に出ているのは、灯と陽介のあいだの「飲み物」のやりとりを鑑みるに、麻衣子とのあいだに強いつながりを陽介がおぼえているからであろう。平たく言うのなら、陽介の心は、少なくともこのときは麻衣子に傾いていたという推測を、〈アイスコーヒー〉は傍証するものとなるのだ。

    ところでこの日、麻衣子は陽介に、幼い頃、自宅に侵入してきた屈強な男から自転車で逃げ回ったときの話をする。その際、彼女は自動販売機を発見するのだが、その発見は以下のように描写される。

    体はくたくたで、喉がひどく渇いていた。自動販売機が目に入って、水にしようかお茶にしようか迷ってから、お金を持っていないことに気づいた。すごく心細くて、早くお母さんに会いたかった。

    ここでは「飲み物が買えない」ことにより、幼い麻衣子は心細さを深くしており、そのことが、切実に、もっとも近しい他者のひとりであろう母親を志向させている。もし、自動販売機を発見した麻衣子のポケットには小銭が入っていて、自動販売機で飲み物を買って一息つくことができた、というふうに引用箇所がなっていたら、続く場面の色合いは、いま我々の目の前にある「破局」のテクストと、全く異なるものになっていたはずだ(註2)

    このように、「破局」において飲み物は、非常に重要な意味合いを担っていることがわかる。そうして、その白眉とも言うべき場面が、北海道を旅行中、雨に濡れた灯のために陽介が〈何か温かい飲み物〉を求めるシーンだ。

    灯に何か温かい飲み物を買おうと思い、近くの自動販売機を見に行った。女性は体を冷やしてはいけないと、以前テレビで言っていたのを、思い出したのだ。ところが、自動販売機には冷たい飲み物しか置かれていなかった。少し離れたところにあったもうひとつの自動販売機も確認したけれど、そちらにも温かい飲み物はなかった。今から別の自動販売機やコンビニを探すほどの時間はない。私は灯に飲み物を買ってやれなかったことを、ひどく残念に思った。すると、突然涙があふれ、止まらなくなった。

    この場面は、必然的に先ほどの〈三田〉の〈カフェテリア〉での麻衣子と陽介の関係を思い出すことを要請する。たとえば、〈三田〉の〈カフェテリア〉では、陽介は「自分のために」「アイスコーヒーを買おうとして」いた。これに反してこの場面では、「灯のために」「温かい飲み物を買おうとして」いる。行動原理から、飲み物の温度まで、見事なまでに好対照だ。そうして、〈三田〉の〈カフェテリア〉での場面で最重要なのは、陽介の心が麻衣子に傾いている、ということである。たとえここで〈灯のために〉と語り手が言おうと、読者は、その裏にちらつく麻衣子の影から目を逸らすべきではない。

    さらに付言するなら、ここには屈強な男の急襲を受け、心細い中で、自動販売機で飲み物すら買うことができずにさらに恐怖を強めていった麻衣子の姿がオーバーラップする。非常に奇妙なことに、灯のことを思っているはずなのに、灯と陽介との間には懸隔が生じていっている。幸福感あふれる北海道旅行であるにもかかわらず、この箇所はいわば、灯と陽介の「破局」を暗示する嚆矢的な箇所となっているのだ。ゆえに、〈突然涙があふれ、止まらなくなった。〉という陽介の様子には、このあと展開される陽介の理路とは異なり、きちんと必然性があったのだ、と見ることが可能である。

    さて、「破局」のラスト、灯が陽介に別れを切り出すのは〈灯と初めて会った日に行ったカフェ〉である。ここでも飲み物が登場する。灯は〈冷たいカフェラテ〉を、陽介は〈どのような飲食物も摂取する気になれな〉い、と言いながら、〈アイスコーヒー〉を。むろんこのチョイスはむろん非常に示唆的だ。カフェラテは、灯にとって「好き」だけど「吐き気」を催すものであり、陽介に対する灯のアンビバレントな感情を表象するものだからであることは言うまでもない。一方で、「飲み物」をきっかけにはじまったはずの二人の関係であるにもかかわらず、陽介は、いまや「飲み物」からほとんど断絶している。と同時に、かろうじて選んだ〈アイスコーヒー〉から、陽介が、麻衣子の飲み残しの〈アイスコーヒー〉を飲んだことを、ここでもまた思い起こすべきであろう。

    灯は別れを以下のような態度で切り出す。

    「あの、聞いてくれますか」
    灯はカフェラテのカップを両手で持ち、自分のふともものあたりを見つめていた。

    〈カップを両手で持ち、自分のふともものあたりを見つめ〉というのは、灯が陽介を家に誘ったときと寸分たがわぬといってもいい様子である。にもかかわらず、陽介は、灯に自分の部屋に〈チョコレートケーキ〉を〈食べに来ませんか〉と言われたときには、〈すぐに、悪い話ではないだろうと、楽観的に考えた〉陽介が、今回は、〈いい話でないことは、聞かなくてもわかった〉と感じる。そうしてその予感は、まるで陽介が予言者であるかのように的中する。

    灯は最後に〈これは、今朝まではよくわからなくて、今やっとはっきりしたことだけど、私、陽介君のこと許せない〉そう言って席を立つ。すでに多すぎるほどの指摘がなされていることであったが、陽介は〈マナー〉を基本的には遵守する人物であった。そんな陽介が、〈マナー〉を破ったことにより、彼の世界は、おとぎ話の勧善懲悪をなぞるように崩壊する。陽介は、歩み去ってゆく灯を止めようと、〈急に立ち上が〉り、その結果、〈カフェラテとアイスコーヒーのカップがテーブルから落ち、地面の上で汚く混ざり合〉う。すなわち、この時点でもう、陽介が愛したふたりの女性は、もはや「飲み物」、否、「恋人」という役割を担うことをやめ、汚く、つまり、灯と麻衣子というおのおのの個性を主張したまま、地面から陽介を〈見下ろして〉いるのだ。

    • (註1)〈明かりをつけていない家の中〉を〈一切ためらうことなく〉〈歩〉くという記述が本文中にはある。なお、同記述については、別項で考察する機会を設けたい。
    • (註2)この次のパラグラフの冒頭は、〈深呼吸をして、長い坂をブレーキをかけずに駆け降りていった〉である。もし麻衣子が〈水〉や〈お茶〉を飲み、体を休めていたら、この一文に包含される不穏さなどは、著しく減じていたことだろう。
  • 論考

    遠野遥「破局」論 ――はじめに

    遠野遥「破局」は、「文藝」二〇二〇年夏季号に掲載された。文芸誌に掲載されたものとしては、著者のデビュー作「改良」につづく二作目の中編小説である。元ラグビー部(現在は高校ラグビー部のコーチ)で身体を鍛えることが趣味の慶應義塾大学生の語り手・陽介、陽介の同級生でありお笑いをやっている膝、膝の引退ライブで出会いのちに陽介の恋人となる後輩の灯、陽介の幼なじみでもあり(テクストがはじまった当初は)恋人でもあった同級生の麻衣子という四人の人物を軸に展開する青春小説の設定を持ちながら、主にその語りにより、きわめて堅牢な屈託を有するテクストとなっている。タイトルの「破局」とは、①灯と付き合いだしたのち、麻衣子と一夜をともにしたことが露顕し、灯に別れを切り出された陽介が、②自身を置いて店を出ていった灯を追いかける途中で屈強な男を意識不明になる(もしくは死ぬ)ほどの力で殴りつけてしまい、警察に押さえつけられる、その両者への客観的な評価であろう。

    本作は、二〇二〇年八月一八日現在における最新の芥川龍之介賞受賞作品(第一六三回/高山羽根子「首里の馬」と同時受賞)でもある。芥川龍之介賞の選評を掲載順にひもといてみると、まず、平野啓一郎の、〈新しい才能に目を瞠らされた〉(註1)という絶賛とも思える評言に出会でくわすことになる。つづく吉田修一は、本作を〈「若い依存症患者たちの物語」〉と評し(註2)、松浦寿輝は〈取り返しのつかないカタストロフというより、若さの無思慮ゆえのちょっとした失態といった程度にしか読めない〉と、あたかも「破局」という表題が〈取り返しのつかないカタストロフ〉を意味しているかのような視座に立ち批判しながらも、〈堂に入〉った〈乾いたハードボイルドな〉文体と陽介の〈保身性〉のあいだの〈ミスマッチ〉や〈黒いユーモア〉、〈的確で魅力的な細部〉などについても指摘している(註3)。小川洋子もまた、〈『破局』に二重丸をつけて臨んだ。(筆者略)正しさへの執着が主人公を破綻させる点において、特異だった。(筆者略)彼は嫌味な男だ。にもかかわらず、見捨てることができない。(筆者略)もしかしたら、恐ろしいほどに普遍的な小説なのかもしれない〉(註4)と好意的に評価し、島田雅彦は〈不安とセット〉になった〈不愉快な読後感〉のあるテクストであるとして、本作について言及している(註5)。山田詠美もまた、〈私にとって一番おもしろかったのが、これ。(筆者略)この作者は、きっと、手練に見えない手練になる。〉(註6)と絶賛、川上弘美は〈表現しようとしていることと、言葉の間に美しい相関関係があ〉ることを指摘し(註7)、奥泉光は〈「破局」の主人公は「欠落」を抱えた人間である。〉と断じながらも、〈かれの「欠落」とは、しかしいったい何なのかと、思考を誘う力が弱い〉(註8)と、さながらトートロジーに陥った作家のような言葉で本作を評価した。最後の堀江敏幸は、作品の細部の要素に具体的に言及し、語り手以外の目線からは「破局」はどういう物語として読めるか、ということを明らかにしてみせたうえで、〈トライを決めない無意識の節度と、見えない楕円球を手放したまま警官の頭越しに見える空の抜け具合に、敵と味方の言葉の呼吸がうまくかみ合っていた。〉(註9)と、極めて詩的かつ美しい表現で選評を結んでいる。

    また、同時代の(つまり本テクストに関していうならオンタイムの、ということであるが)書評・感想では、たとえば豊﨑由美が、陽介によって記述される〈〈私〉の内面の薄っぺらさや思考停止ぶり〉と、彼の客観的な評価(〈〈私〉はおもしろみには欠けるものの好青年であることには変わりはない〉)のずれという〈二重構造を生み出す語りのテクニック〉や〈ラストの”破局”にリアリティを与えるために、作者がいかに細部のエピソードに気を配っているか〉などの点に着目し、それらを美点ととらえ、〈『破局』が好き過ぎ〉るというきわめて好意的な評価を与えている(註10)。いっぽうで、清田隆之は、語り手の女性に向けるまなざしが〈女性蔑視的な感覚から生まれるものだ〉と指摘し、〈陽介はむしろ、いわゆる”マジョリティ男性”的な特徴を先鋭化させたようなキャラクターなどではないか〉と考察している(註11)

    「破局」について、ある程度分量のある作品論としては、川本直によるもの(註12)がまずある。同論は、登場人物たちの人物像、というよりも性格や気質を的確に描き出し、〈緊密に構築された細部が響き合いつつ収斂していく果てに、劇的な結末が訪れるように仕組まれている〉ことを具体的に指摘したうえで、ブレット・イーストン・エリス「アメリカン・サイコ」やカミュ「異邦人」、また、スウィフトやイーヴリン・ウォーの諸作との近似性を指摘するものだ。また、Kazuは、作中、唐突に祈りたくなった陽介の〈身振りは陽介の「元交際相手」である麻衣子の回想において、小学生だった彼女が一人で留守番をしている家に侵入し、彼女のベッドで仰向けに寝て「胸の上で両手の指をしっかりと組み合わせていた」男の姿として反復される〉点、および〈作中、陽介はチワワはカラスといった動物から道ですれ違った小さい女の子に至るまで、さまざまな他人に顔をじっと見られる。〉という点などに鋭く着目し、そこから、見られることに意識的な陽介像を炙り出し、男性と女性の非対称性にまで、きわめて的確な手つきで論を進めていく(註13)。また、しみは陽介の二股の因が〈向こうからの「押し」〉という共通項を持っていることを示し、〈じつは陽介は加害者などではなく、被害者なのではないか〉という視点を導入し、〈日々人間と戦いながら、ゾンビとして暮らしている〉陽介像を抽出した(註14)

    本論考では、これらの同時代の評言からの示唆を受けつつ、たとえばまなざし、たとえば飲料、たとえば父性と母性などをキイ・ワードもしくはキイ・アイテムとして「破局」を読み解いていくことを目的とする。

    なお、本文の引用については、『破局』(二〇二〇年七月、河出書房新社)を底本とした、二〇二〇年六月(奥付ママ)発行の河出書房新社刊のKindle電子書籍版に拠った。引用・参考文献を含め、ルビは適宜省略した。

    • (註1)平野啓一郎「他者との「ディスタンス」」(「文藝春秋」二〇二〇年九月号)
    • (註2)吉田修一「選評」(「文藝春秋」二〇二〇年九月号)。なお、この評言における「依存症」は、いささか軽率な用いられ方をされていると指摘せざるをえない。
    • (註3)松浦寿輝「奇抜なユーモアに満ちた思考実験」(「文藝春秋」二〇二〇年九月号)
    • (註4)小川洋子「普遍的な小説」(「文藝春秋」二〇二〇年九月号)
    • (註5)島田雅彦「全員孤独」(「文藝春秋」二〇二〇年九月号)
    • (註6)山田詠美「「選評」」(「文藝春秋」二〇二〇年九月号)
    • (註7)川上弘美「魔法」(「文藝春秋」二〇二〇年九月号)
    • (註8)奥泉光「いつもどおり」(「文藝春秋」二〇二〇年九月号)
    • (註9)堀江敏幸「空の抜け具合」(「文藝春秋」二〇二〇年九月号)
    • (註10)豊﨑由美「『破局』遠野遥は、文芸界のニュースターだ! 二重構造を生み出す語りを書評家・豊﨑由美が熱烈考察」(「QJWeb」、二〇二〇年八月六日、二〇二〇年八月一七日閲覧)
    • (註11)清田隆之「ハイスペ男子の奇妙な自分語りが、男性性のメカニズムを浮き彫りにする芥川賞受賞『破局』」(「QJWeb」、二〇二〇年八月七日、二〇二〇年八月一八日閲覧)
    • (註12)川本直「我々は空虚なゾンビであり、空虚なゾンビは我々である――遠野遥論」(「文學界」二〇二〇年九月号)
    • (註13)Kazu「性的ゾンビ 遠野遥『破局』について」(「いえばよかった日記」、二〇二〇年七月九日、二〇二〇年八月一八日閲覧)
    • (註14)しみ「ゾンビ、ごめん。」(「note」、二〇二〇年七月一三日、二〇二〇年八月一八日閲覧)
  • 論考

    ちっぽけな生の輝き――ZARD「心を開いて」論

    「心を開いて」は、〈私はあなたが想ってる様な人ではないかもしれない〉というフレーズではじまる。ここでまず描かれる情況は、換言するのなら「好きな相手が自分のことを理解していないように感じる」ということだ。けれども、この歌の〈私〉は、そのことに不平を漏らしたり、あるいは悲しんだりなどせずに、〈でも不思議なんだけどあなたの声を聞いてるととても優しい気持ちになるのよ〉と、「自分が理解されていない」ことを踏まえたうえで、〈あなた〉に対してある種の慰めを見出していることがわかる。つまり、この歌で描かれるのは、相互理解の大切さ、ということでは必ずしもない。〈言葉はないけどきっとあなたも同じ気持ちでいるよね〉というフレーズを見ると、互いに歩み寄ることの大切さですらないのかもしれない。もし「心を開いて」の歌詞に主題を見出すのなら、たとえばそれは、「人は他者をあるがままに肯定し、最大限の尊重を払うべき存在として認めることもできるのだ」などという具合になるだろう。

    「心を開いて」は、〈たまらなく好き〉とか〈どんなときもあなたの胸に迷わず飛び込んでゆくわ〉などのフレーズを見ると、まぎれもなくラブソングである。けれども一方で、「愛」というものについて非常に慎重な姿勢を見せている楽曲でもある。それは、〈忘れようとすればする程好きになる それが誤解や錯覚でも…〉というフレーズに、如実に表れている。〈好き〉という気持ちをあるいは〈誤解や錯覚〉かもしれないととらえることで、この歌には暗い不安の影が忍び寄る。けれども、それを振り切るように、歌詞は〈誤解や錯覚でも… 心を開いて〉と展開する。この歌詞がもし、聞くものの心を動かすようなものになっているのだと仮定するのなら、それは、〈人と深く付き合うこと私もそんなに得意じゃなかった〉(〈私も〉、すなわち〈あなた〉も)という前提によるところも大きいだろう。人とのかかわり合いが苦手、すなわち、あけっぴろげな交際が苦手な〈私〉あるいは〈あなた〉が、その重たい秘密のドアーを開くように〈心を開〉く。その、振るわれたありったけの勇気に、リスナーは感動するのだ。

    そうして、「人は他者を、最大限の尊重を払うべき存在として認めることができるのだ」という命題と、「あなたのことを愛していないかもしれない けれども『心を開く/開いてほしい』」という勇気が同居することで、「心を開いて」はさらに強靭な詞世界観を獲得することになる、と言っては言い過ぎだろうか。つまり、「人は自分が愛していないかもしれない他者に対してですら、最大限の尊重を払うべき存在として認めることができるのだ」というロジックすら、「心を開いて」からは抽出できる、ということなのであるが。このようなロジックを、生のまま提示するのではなく、ほとんど「自分の心の動きを追う」ことだけで、結果的に描き出している。その達成は、決して軽んじられるものではないだろう。

    心象描写が中心のこの歌において、だから二番のサビ、というのは非常なキモになってくる。そこにはひとつの「風景」が描かれているからだ。

    ビルの隙間に二人座って
    道行く人をただ眺めていた
    時が過ぎるのが悲しくて
    あなたの肩に寄りそった

    〈ビルの隙間〉ということは、逆に言えば、二人の隣にはビルが聳えている、ということになる。ビルに両側を挟まれることにより、二人の相対的なちっぽけさは際立ち、また、〈道行く人をただ眺め〉るという営為は、「道行く人を観察する」という営為や「道行く人を眺める」という営為よりもさらに、主体性が希薄であるものだ。「自身の心の動き」をいっしんに追っていたはずの「心を開いて」において、ここはまさしく異色と言ってよい箇所だ。さらに、〈時が過ぎる〉という、人には容喙しえない圧倒的な現象でもって畳みかけられることによって、ここであたかも〈私〉はひとつぶの砂のようである。そんなひとつぶの砂が、わずかな自我を振り絞るように、そっと「あなたの肩に寄りそう」情景は、切実であり、その切実さは、ある種の美しさを湛えている。

  • 論考

    五彩の色の招待 ――泉鏡花「龍潭譚」論

    はじめに

    泉鏡花「龍潭譚」は、一八九六年十一月に「文芸倶楽部」に発表され、「躑躅か丘」「鎮守の社」「かくれあそび」「あふ魔が時」「大沼」「五位鷺」「九ツ谺」「渡船」「ふるさと」「千呪陀羅尼」の九章より構成される短編である。ふとしたことから異界に迷い込んだ千里が、亡母にも似た女性をそこで見出し、もとの世界(以下、本論では「現実」と記す)に戻ったのちもその追憶さめやらず、狂人扱いされるが、やがて千呪陀羅尼の加護を受け、心身ともに「現実」に定着する、というのが一般的な読解である。過去においては、母性とのかかわり(註1)やそれに伴う通過儀礼イニシエーション(註2)、柳田國男の諸作品との一致点(註3)などが研究上の問題として俎上に載せられてきた。

    本論でまず前提としたい問いかけは、そもそも、異界に迷い込むとはどういうことかということである。それは、現実と異界とのあいだに境界線が存在し、その線をまたぎこすことだろうか。一面ではその見方は正しいが、そこにはひとつ欠落している視座がある。すなわち、異界それ自体がときにひとを誘惑し、ひとを拉することがある、という点である。平たく言うならば、異界はただ口を開けて待っているのではなく、それ自身意志を有つかのように蠢き、積極的にひとびとをのみこもうとする、ということである。「神隠し」ということば自体が、神によって隠された=意志のある異界にのみこまれたというニュアンスを含む。本論では、これまで顧慮されることのなかったその見地に立つことで、「龍潭譚」という小説の読解において結果として等閑視されることになったテクストの深層で起こっている運動について考察を試みる。

    一 異界の出現と「現実」の抵抗

    「龍潭譚」における異界は、まず、一匹の虫の形をとってあらわれる。ハンミョウと呼ばれるこの虫は「道教え」とも呼ばれるものである。本文中では語り手〈われ〉でもある千里は、ハンミョウを発見したことにより、〈家路に帰らむ〉としていたこころがにわかに消え、この虫を追うことになる。これはすなわち、「家」に象徴される「現実」に目を背けることでもあり、異界の存在を視界の一隅に据えるという意味を担う。また、ここで、千里の運動は、ハンミョウに誘われるままのものとなり、つまり、自律的なものではなく、他律的なものに依存している。つまり、千里の与り知らない論理が、テクストにおいて、千里を動かす一本の柱となって機能しはじめている。これを踏まえると、単なる千里の行動ではなく、異物によって行動が惹起されるという事態こそが「龍潭譚」における、異界の先触れなのであると言える。このテクスト上の運動の一例を見ても、異界が、ただ単に従容として待ち受けているものではなく、積極的に千里を誘き寄せるものとして機能していることは疑いがない。

    千里がはじめて自身の体感によって違和感を、すなわち異界を察知するのは、「鎮守の社」において、〈頰のあたり先刻に毒蟲の触れたらむと覚ゆるが、しきりにかゆければ、袖もてひまなく擦りぬ〉という箇所である。ハンミョウという異界の意志との接触は、まずはかゆみという形で千里の身体を侵食し、その容貌の解体をはじめた。と同時に重要なのは、この違和感に対して、千里はまったく恐怖を抱いていないということである。異界はまだこの時点で、千里の身体の表面をまさぐることはできていても、内心に干渉するまでには至っていないと推察される。

    そこで異界は次の手に打って出る。すなわち、風景の造型である。

    一文字にかけのぼりて、唯見ればおなじ躑躅のだら/\おりなり。走りおりて走りのぼりつ。いつまでか恁てあらむ、こたびこそと思ふに違ひて、道はまた蜿れる坂なり。(引用者略)泣きながらひたばしりに走りたれど、なほ家ある処に至らず、坂も躑躅も少しもさきに異らずして、

    「変容しない世界」という「世界の変容」である。これは、千里を心細くさせ、異界が千里の内心をもいよいよ引き捕まえたかのように見える。しかしながら、千里の内心は、ふたたび〈もういゝよ、もういゝよ〉という〈隠れ遊び〉をする子供たちの声によって「現実」に引き戻される。この、登場後すぐに消えてしまう子供たちの正体は、異界の手先であると考えるのが妥当であるように思われる。が、この時点で重要なのは、千里が〈我がなかま〉という意識で彼らをとらえている点である。すなわち、千里の意識は、まだこの声を、千里とおなじ位相に属するもの、「現実」のものとして認識している。このことにより、千里の内心は、異界の侵入を斥け、異界はこの時点で、ふたたび現実の表層をすべるだけのものへと退行するのである。

    ハンミョウといういかにも子供好きのする姿の昆虫の登場から、その毒による容貌の変化、さらには延々とおなじ風景を見せつけるというのは、人間がなにかの目的に向かって走るのと同様な、一貫性のある歴然としたひとつの態度であり、「龍潭譚」冒頭における異界が、ことあるごとに千里を取り込もうとしている姿がありありとうかがえる。まだ幼く弱い千里は、そこに触れることはできても干渉することはできない。と同時に、最後に述べた千里が「現実」を意識し、半ば踏み込めかけていた異界から生還する場面は着目に値する。「龍潭譚」においては、冒頭から、異界の対抗勢力として、「現実」が強く機能していた、ということを示すものだからである。換言すれば「龍潭譚」の冒頭にあるのは、主人公である千里の思惑などを置き去りにした、千里を掠奪しようとする異界と千里をとどめようとする「現実」との意志と意志との拮抗である、と言える。

    二 異界へ請じ入れられる千里

    〈隠れ遊び〉をする子供たちの声によって、千里は境内に導かれる。境内とは、文字通り境界の内部であり、神聖な空間である。ここで千里は、〈かたゐ〉(筆者注・被差別者)の〈兒ども〉に〈お遊びな、一所にお遊びな。〉と〈せまりて勧め〉られる。

    かくれあそびの意義については、先行研究にてすでに考察がなされている(註4)ので、本論では、中谷克己の〈つまり、「かくれあそび」とは、他界に参入するための聖なる儀式として理解してよいだろう。「急に家に帰らむとはおもはず」という千里は「かたゐ」の子供たちの誘いに応じ、聖なる通過秘儀を受け入れるのである。〉という指摘を引用するにとどめる。中谷の〈聖なる通過秘儀〉という指摘には留保をつけなければならないが、〈隠れ遊び〉というもの自体が、このように、「現実」と異界をつなぐある種の通過点的な役割を担いうるものである、ということは踏まえておかねばなるまい。同時に、作品発表当時の文脈で読み解こうとするならば、ここにはひとつの非常なエネルギーをもつ坩堝がうまれると思料される。すなわち、神聖なる〈境内〉という空間のなかを自由に跳梁する〈かたゐ〉(=ケガレ)という構図である。聖とケガレが同時に渦巻くことにより、そこには当然、不安定に混淆した磁場が――「現実」の様相を混沌とさせるような磁場が――生まれると見なければならない。その混沌のなかから立ち上がるものは、「龍潭譚」というテクストにおいてはひとつしかない。つまり、〈隠れ遊び〉において隠喩的に行われるのは、表層的にのみ現実にあった異界の入り口が、儀式によって立体的に立ち上がるという運動にほかならない。

    さて、彼らの〈隠れ遊び〉に対して、千里は、〈友欲しき念の堪へがたかりし其心のまだ失せざると、恐しかりしあとの楽しきとに〉〈拒まずして頷〉く。つまりここで、千里は不安定に混淆した磁場に立入ることを、「自らの意志で」選択する。ここに着目しなければならないのは、千里の意志が介入することにより、千里をとどめるべきものとして存在していた「現実」が、千里という拠って立つべき接点を喪失し、急激な機能不全に陥っていくこととなるからである。

    つづく場面で、〈山の奥にも響くべく凄じき音して堂の扉〉が〈鎖〉される。管見では、この描写について解釈を施したものは見られなかったが、これは、「現実」と異界との境界に存する〈扉〉が、「現実」の激しい抵抗を受けながらも閉鎖され、幼い千里が、自力では帰還不可能になったことを示唆するものと見るべき、非常に重要な場面である。千里を庇護するものとして機能していた「現実」は、もはや千里に容喙することを許されない。

    このような「現実」の千里に対する働きかけは、死者の生者に対する働きかけと、非常に相似した形を描くと言ってよい。「龍潭譚」における死者とは、すなわち千里の母である。従来の研究では、九ツ谺の〈うつくしき人〉との関係、及び千里の姉との関係においてのみ、死者である母親は取りざたされ、結論にこそ異同はあるものの、その過程で明らかにされるのは、作中における母の圧倒的な「不在」であった。しかしながら、この「現実」の論理には、思慕される側の母親からの応答が、非常にささやかな反響であるとはいえ、あらわれていると看做すべきであろう。そのように考えることにより、〈われ〉という一人称によって語られながらも、「龍潭譚」になぜか内在しているポリフォニックな響きは、はっきりとした必然性を帯びてくる。

    三 異界の住人となる千里

    異界のとば口にわれを立たせた途端に、児どもたちは影も形もなくなる。代わりに登場するのは、一人の〈優しきこゑ〉をもつ〈丈高き女〉である。女は〈堂の前を左にめぐりて少しゆきたる突あたり〉にある〈小さき稲荷の社〉に千里を案内した途端にその姿を晦ます。子供と同様に、女は突然に登場し、そして消失する。千里が声に吸い寄せられるようにしてついていく、という意味でも、両者は一見よく似た場景を描いていると言ってよい。ただしそこには、検討の必要な差異がある。第一に、子供の消失のときは、われには、〈面を蔽〉うだけの暇はあったが、〈丈高き〉女の場合にはそれすらもない。つまり、こことどこか、パラフレーズするならば、「現実」と異界の、非人間的に自在な往還が、よりたやすく行われるようになっている。第二に、われは〈身の毛よだ〉たせている。〈身の毛〉が〈よだ〉つというのは身体的な表現であるが、同時にそれは、心理的な強烈な違和感をも指示する表現であることは言うまでもない。よく似たシーンであるだけに、異界が面的にいかに拡大したか、いかにたやすく異界が千里を取り巻くようになったかが、非常にあざやかなコントラストとして提示されている。

    そのコントラストがよりあざやかになるのは、すなわち、千里がより深く異界に踏み込むのは、千里が姉の声を聞く場面である。

    「ちさとや、ちさとや。」と坂下あたり、かなしげにわれを呼ぶは、姉上の声なりき。
    (引用者略)
    走りいでしが、あまりおそかりき。
    いかなればわれ姉上をまで怪みたる。
    悔ゆれど及ばず、かなたなる境内の鳥居のあたりまで追ひかけたれど、早やその姿は見えざりき。

    そもそも、千里にとって姉とは、〈いまだ家には遠しとみゆるに、忍びがたくも姉の顏なつかしく、しばらくも得堪へずなりたり〉という存在であった。〈家〉との距離をはかろうとするときに、姉とは絶対の指標として脳裡に浮かぶものだったのである。ところで、〈かたゐ〉の子供たちの声に千里は「現実」を発見し、異界の手から逃れることができた。しかしながら、本来「現実」をもっとも象徴すべき「家」を指し示す声に対して、此度は千里はまず〈怪〉む。すなわち、千里の認識により把握される世界における「現実」の比重と異界の比重が、逆転しているのである。換言すれば、これは、千里は「現実」より異界の論理を多く生きるものとして、「異界の住人」として生まれ変わったということである。

    それをもっとも端的に示すのが、以下にあげる場面であろう。

    手に掬ばむとしてうつむく時、思ひかけず見たるわが顔はそも/\いかなるものぞ。覚えず叫びしが心を籠めて、気を鎮めて、両の眼を拭ひ/\、水に臨む。
    われにもあらでまたとは見るに忍びぬを、いかでわれかゝるべき、必ず心の迷へるならむ、今こそ、今こそとわなゝきながら見直したる、肩をとらへて声ふるはし、
    「お、お、千里。えゝも、お前は。」と姉上ののたまふに、縋りつかまくみかへりたる、わが顔をみたまひしが、
    「あれ!」
    といひて一足すさりて、
    「違つてたよ、坊や。」とのみいひずてに衝と馳せ去りたまへり。

    ここで姉は千里を千里と認識できない。のみならず、〈『あれ!』/といひて一足すさりて〉というように、千里を禁忌のように忌避する様子すらうかがえる。この二点を踏まえると、テクストにおいてこの場面が果たす機能は、千里を〈日常圏から完全に遮断する〉(註5)というよりは、もはや千里は、日常からとっくに断絶した異界の住人となっており、姉とは異なる位相に存在していることを示すというものである、と言える。

    四 再構築される〈女〉、あるいはその禁忌性

    〈大沼とも覚しき〉ところにたどりついた千里は、そこに〈倒れ〉る。そうして、〈柔かき蒲団の上〉で目覚める、というのが「五位鷺」の冒頭である。目覚めたとき千里は、〈眼のふち清々しく、涼しき薫つよく薫〉るのを感じ、〈竹縁の障子あけ放〉すと、〈庭つゞきに向ひなる山懐に、緑の草の、ぬれ色青く生茂〉っているのを、〈筧の水むくくと湧きて玉ちるあたりに盥を据ゑて、うつくしく髪結うたる女の、身に一絲もかけで、むかうざまにひたりて居〉るのを見る。目覚めたばかりであるというのに千里は五感を総動員してあたりの風景をうかがい、さらにそのいずれもが、明瞭に機能しているところに特筆すべき点がある。黒一面に四方を取り囲まれ、自分がいる場所も〈大沼とも覚しき、、、〉(圏点筆者)と不明瞭にしか認識できていなかった「あふ魔が時」のラストと、これは、好対照をなすからである。その対照は、すなわち、異界の住人となって、「現実」に感応できなくなった千里と、みずみずしいまでに異界に感応している千里という対照をも示す。

    しかしながら、やがて千里は、異界のなかに、触れようとしても触れえない存在に気づく。千里のそばにいる〈女〉である。

    ふと其鼻頭をねらひて手をふれしに空を捻りて、うつくしき人は雛の如く顔の筋ひとつゆるみもせざりき。またその眼のふちをおしたれど水晶のなかなるものの形を取らむとするやう、わが顔はそのおくれげのはしに頰をなでらるゝまで近々とありながら、いかにしても指さきはその顔に届かざるに、はては心いれて、乳の下に面をふせて、強く額もて圧したるに、顔にはたゞあたゝかき霞のまとふとばかり、

    ここで着目すべきは、千里がくりかえしくりかえし〈女〉に触れようとしていること、〈雛の如く〉〈水晶のなかなるものの形を取らむとするよう〉〈あたたかき霞のまとふとばかり〉などと、自分の知っている感覚で、なんとしてでも〈女〉を表現しようとしていることである。触れられないからこそ、かえって千里は、自身の感覚に異界を浸透させようとさせようとし、異界の内奥へ内奥へと向かう、そんな運動がここにはある。

    この〈女〉については、〈死も性もけがれもないまぜにしているという場面が次々と続くことによって、聖なるもののすべてを備え、意味のうまれるみなもととしてのカオスの化身であることが示されていく。女の実体がつかめない、それゆえの求心的な呪縛の力はすっかり千里を魅了し、帰っていきたくない気持ちにさせられる〉という種田和加子の指摘がある(註6)。しかしながら、〈死〉〈性〉〈けがれ〉などは、芳川泰久の指摘(註7)からも敷衍できるように、あくまで〈女〉の〈表象〉であり、〈女〉の本質とは異なるのではないか。〈女〉が、〈淡雪の如く含むと舌にきえて触るゝものなく、すずしき唾のみぞあふれいでたる〉という状態を千里に味わわせたるために、千里に乳房を含ませたのだ、とは考えがたい。〈ぢつとしておいで、あんばいがわるいのだから、落着いて、ね、気をしづめるのだよ、可いかい〉と言う〈女〉にとって重要だったのは、その結果ではなく、働きかけることそれ自体であろう。このような、〈女〉の行動原理と、実際に起きた現象のあいだの齟齬を踏まえると、〈垂玉の乳房たゞ淡雪の如く含むと舌にきえ〉たのは、〈女〉の意志を、異界の意志が「無視した」結果だ、という推論は、きわめて蓋然性が高い。〈女〉がカオスの化身や〈霊視能力を持〉(註8)つ存在なのではない。むしろ、〈女〉は、自身の意志すらも自身の存在のありかたに反映させられないくらいに空虚な存在として造型されている、と言える。自身の意志の代わりに〈女〉に反映しているのは、ここでは、〈女〉と千里との接触を拒む異界の意志である。すなわち、異界がそこに属する〈女〉を、〈死〉であるように、〈性〉であるように、〈けがれ〉であるように、ときどきに書き換えているのだ。それゆえに千里は、あくまで母性の権現でありたがる〈女〉に対して、〈死〉すらも看取するようになる。そのような意味において、〈女〉は、異界の異界性がもっとも照射される存在として機能する。

    〈女〉と異界との関係を、如実にあらわす最たるものが、千里が眠っている〈女〉の上の〈守刀に手をかけ〉る場面である。その際千里は、〈女〉から血汐がほとばしったのを見る。あわてて手でおさえるが、〈おさへたるわが手には血の色〉がつかなかったことによって、〈こゝろづきて見定〉めたところ、その赤さは〈其膚にまとひたまひし紅の色〉であったというように理解する。

    従来、千里が見た血汐は、千里の幻視であるととらえるというような陥穽におちいっていた。しかしながらそれは、千里が、「現実」の論理に即して、自分が見たのは血汐であったのではなく〈膚にまとひたまひし紅の色〉であったという理解に落ち着いたのをなぞっているにすぎない。異界における千里の五感は、〈女〉に触れえないことをも含めて非常に明瞭であり、また、次項でも触れるが、〈女〉は千里の精緻な観察の対象であった。その〈女〉から、〈ほとばし〉るほどに激しい勢いであふれたものをただの誤認ととらえるのは、いささか無理があるのではないか。

    もう一点、忘れてはならないのは、九ツ谺に来てめざめたとたんに、姉にも見分けがつかないほどに変容していた千里の顔が、〈まるでかはつたやうにうつくしくなつた〉ことである。ハンミョウという異界の意志の一片によって醜くそのありようをひとたび書き換えられたものが、いともたやすくもとどおりに再構築されていることがわかる場面である。ここから、〈女〉から流れ出た血汐をなかったかのように書き換えることも、異界にとってはたやすいことであろう、という論理にまで推し進めることは、難しいことではない。

    これらを考慮にいれたとき、千里が守刀に手をかけたときに、血汐は確かに〈さとほとばし〉ったと考えるのが妥当である。そうして千里は、その血汐が〈した/\とながれにじむをあなやと両の拳もてしかとおさへ〉た。つまり、これまで触れえなかった〈女〉にここではじめて触れることがかなった。とりもなおさずそれは、異界の、いわば触れうべきではない深淵にここで触れてしまった、ということである。その事実は、血汐を〈其膚にまとひたまひし紅の色〉と看做したことにより、千里の認識の埒外に置かれる。けれども、聖痕として、確実に千里に刻まれている。異界から帰還した千里が、自身を見つめるときだけではなく、他者から見つめられるときにも異物としてとりあつかわれるのは、そうして、そのことに対して千里が激しい攻撃性をあらわにし、自身で自身をコントロールできなくなるのは、単に異界から帰ってきたから、というだけではなく、かくのごとくに、異界のしるしが刻印されてしまったからなのである。

    五 「龍潭譚」における〈うつくし〉いもの

    「龍潭譚」においては〈うつくし〉という表現が散見される。第一章の「躑躅か丘」においても、〈行く方も躑躅なり。来し方も躑躅なり。山土のいろもあかく見えたる、あまりうつくしさに恐しくなりて〉〈身はたゞ五彩の色を帯びて青みがちにかゞやきたる、うつくしさいはむ方なし。〉の二度、その表現は見られる。この時点で千里がうつくしいと思ったのは、〈山土のいろもあかく見えたる〉ほどの躑躅と〈五彩の色を帯びて青みが血にかがやくたる〉ハンミョウであり、つまり、そのうつくしさは、色彩的なものに限定されていることがわかる。審美の基準としてはきわめてシンプルなものである。

    もう一点看なければならないのは、千里のうつくしさに対する心の運動である。躑躅のうつくしさに対しては千里は恐怖を覚える一方で、ハンミョウのうつくしさに対しては、〈したゝかにうつて殺しぬ。嬉しく走りつきて〉と、激しい暴力性を見せる。おなじ俎上に載せられる美に対して、畏怖と破壊衝動という、相反するかのような感情を抱いているわけである。森和彦は、「龍潭譚」における、〈退行への願望と禁忌とが共存するアンビバレンツな状況のあやうさ〉(註9)を指摘しているが、その顰に倣うならば、冒頭の時点で、千里の精神は、両義性を、それもかなり極端な両義性を内包していたと言ってよい。

    千里はまた、かくれあそびで子供たちがいなくなったあと登場する〈優しきこゑ〉をもつ〈丈高き女〉に対しても〈うつくしき〉という表現を用いている。そこでもやはり、〈土のひろ/゛\と灰色なせるに際立ちて、顔の色白く、うつくしき人〉というぐあいに色彩は美の価値判断につきまとっている。ただし、ここで、冒頭であれほど激しくぶつかりあっていたうつくしさに対する感情はなりをひそめている。千里は女を恐ろしいとも暴力を強いるべき対象ともとらえない。つまり、「躑躅か丘」とは異なる価値判断をするようになっている。同時にわれは、〈うつくしき顔の笑をば含みたる、よき人と思ひたれば〉と語る。色彩的な美を認識し、さらに、〈笑〉の〈うつくしき〉にまで分け入っており、美の仔細な検討をおこなっている、という点は、非常に重要である。つまり、千里はここで、より「思考している」のだ。このことが、「躑躅か丘」の直観的な認識とは異なっている。これは、ただ単に表層の相違にとどまらず、同時に、異界の者に対する「理解」がより深まった瞬間でもあることを示す。つまりは、より深く異界に「呑まれた」瞬間でもある、ということになるのだ。

    「五位鷺」になると、千里は〈うつくしき人の姿〉を〈さやか〉に見る。ここで、〈うつくし〉さに対して、千里はこれまで以上に精緻な観察をしている。

    ちかまさりせる面けだかく、眉あざやかに、瞳すゞしく、鼻やゝ高く、唇の紅なる、額つき頰のあたり﨟たけたり。こは予てわがよしと思ひ詰たる雛のおもかげによく似たれば、貴き人ぞと見き。年は姉上よりたけたまへり。知人にはあらざれど、はじめて逢ひし方とは思はず、さりや、誰にかあるらむとつく/゛\みまもりぬ。

    ここで千里は、「現実」世界の記憶を参照しているものの、それは模糊としていて女の正体をつきとめるに至らない。いっぽうで、〈予てわがよしと思ひ詰たる雛のおもかげによく似たれば〉と述懐し、つまりは、「現実」で描いていた理想に異界に現出した女を上書きしている。これらのことにより、「現実」は希釈され、さながらこの異界こそが現実であるかのような様相を帯びてくる。

    それは、「現実」に戻ったあとの千里の〈うつくしき顔したりとて、(引用者略)いつはりの姉にはわれことばもかけじ〉という態度においても継続している。ここでうつくしさは、ふたたび扁平なものとしてあつかわれ、「現実」における現実認識のとぼしさを、如実にあらわす表現となっているのだ。

    しかしながら、「千呪陀羅尼」における暴風雨のあと、千里は姉を〈うつくしさはそれにもかはらでなむ、いたくもやつれたまへりけり〉と観察する。ここで千里は、ようやく「現実」の象徴であった姉を、異界的にではなく現実的に「見つめ」、認識を「現実」に帰属させることに成功している。それも、〈やつれたまへり〉と言う、〈うつくしさ〉とは一見結びつかないような語を、うつくしさと結びつけることで、これまでには登場しなかったあたらしい美の発見にも成功している。

    以上を踏まえると、「龍潭譚」における〈うつくし〉という用語の使用は、異界及び「現実」と、非常に密接にかかわっていることがわかる。〈うつくし〉という語を使用するとき、千里は、自身ではどう現実を認識しているのかという次元をたやすく超越し、精確に自身と異界もしくは「現実」との距離を表現「してしまう」のである。

    六「龍潭譚」末尾及び空白の時間について

    「龍潭譚」のクライマックスとも言える場面は、暴風雨のなか、姉が千里を抱きしめる場面である。

    からだひとつ消えよかしと両手を肩に縋りながら顔もて其胸を押しわけたれば、襟をば搔きひらきたまひつゝ、乳の下にわがつむり押入れて、両袖を打かさねて深くわが背を蔽ひ給へり。御仏の其をさなごを抱きたまへるも斯くこそと嬉しきに、おちゐて、心地すが/\しく胸のうち安く平らになりぬ。

    ここで、千里は確かにこれまでになかった充足を感じている。それは、〈乳をのまむといふを〉〈許したまは〉なかった〈姉上〉が、〈乳の下にわがつむり押入れて〉くれたことに由来するであろうことは、先行研究をひもとくまでもなく確かなことであろう。しかしながらここでひとつ問題が生まれる。すなわち、「龍潭譚」は、このクライマックスをもって完結していないという問題である。

    「龍潭譚」の掉尾は、〈あはれ礫を投ずる事なかれ、うつくしき人の夢や驚かさむと、血気なる友のいたづらを叱り留めつ。年若く面清き海軍の少尉候補生は、薄暮暗碧を湛へたる淵に臨みて粛然とせり。〉という文章によって飾られる。この部分をめぐっては、これまでさまざまな解釈がなされてきた。〈読者を戸惑わせるこのような突飛な筋の運びは、何よりも千里の生きた見えない時間が近代によって受け入れられなかったことから生じてくる。〉という指摘(註10)は多くの示唆を含んでいるが、少なくとも千里には、自分の前で〈いたづら〉をするような〈血気なる友〉がおり、彼を〈叱り留め〉ることができる。このような千里を〈共同体の外なる存在〉(註11)と看做すのはむずかしい。また、もし千里が〈共同体の外〉を〈漂泊〉しつづけ〈死の領域〉にいたのだとしたのならば、そもそも〈鎮魂〉という儀式(註12)は果たしえないであろう。〈鎮魂〉は、自身を〈生の領域〉にいると考えるものによっておこなわれる営為だからである。〈自ら物語を語り収めることができないままに消失する “われ”〉という指摘(註13)にも、疑義を呈せざるをえまい。「龍潭譚」において物語自体は九つ谺が沈んだところできれいに収束しているにもかかわらず、なぜかそのあとに成長した千里が登場するというテクストの未収束が起こっていることにこそ問題があると考えるべきである。

    ここで俎上に載せたいのは、千里の〈粛然とせり〉という態度である。それは、これまで〈われ〉として語ってきた千里の態度――姉の言いつけに背いてハンミョウを追いかけるような無邪気さ、母にするように姉の乳房を口にふくみたい気持ち――には見られない、非常に大人びたものである。つまり、この末尾で示されるのは、千里が〈海軍の少尉候補生〉になるまでにあった成長のおおきな余地である。逆に言えば、この直前までの箇所の千里の未熟さが、この最後の文章によって浮き彫りになるのである。

    そのような視座に立った時、「龍潭譚」を、〈千里の母性追慕の彷徨は、こうしてやっと安住の地を見出したのである〉という、物語のクライマックス部でテクストが停止したかのような指摘(註14)に首肯するのもまた困難である。むしろ逆に、千里がこれまでに類似した彷徨をこのあともつづけたからこそ、物語は完結しているにもかかわらず、テクストとしての完結はしなかったととらえるべきではないか。

    空白の時間のなかにあるのは、語りえない物語ではない。語りえない物語がもしそこにあったならば、「龍潭譚」というテクストの主導権は、最後まで〈われ〉に握られていたであろう。〈われ〉という一人称がテクストの最後に出て来ないことは、〈われ〉として語る必要がなくなったため、語り手の座を明け渡した、と考えるのが、もっとも自然である。〈われ〉でありつづける限り語りえない物語があいだにあった、と仮定することも不可能ではないが、そうであるならば、「龍潭譚」という物語が希求しているのは、一貫した〈われ〉の語りである、ということになり、その一貫性を崩すことを拒否する姿勢が毅然としていればいるほど、ラストでのみ〈われ〉が語り手から下りていることは不自然である。

    以上を踏まえると、空白の時間のなかにあるのは、語られる必要のない物語、つまり、「龍潭譚」に匹敵するほどの輝きのない、行きつ戻りつの彷徨の物語であり、飛躍的にでもドラマティックにでもなく、推し進められるように成長をしていく千里の姿である。その過程で、母を思慕する思いは、おおきくはあるが必然的な変容を遂げるが、決して消えることはない。だからこそ、〈海軍の少尉候補生〉となったいまとなっても、千里は母に対するロマンティックな思いから九ツ谺を訪い、その行為が、「龍潭譚」の中核を担う物語に接続され、テクストとして、ひとつらなりのものとして提示されるのである。(註15)