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    遠景の乙女たち

    きゃーっ! という、若い乙女がよくあげる、楽しそうな叫び声が聞こえてきました。口元に、ココアの入ったマグカップを持っていきかけていた手を止め、わたしが窓の外に目をやったのは、もちろんその「叫び」が要因といえば要因に違いありません。けれどもじつは、心のもっと深いところで、その「声」のほうに感応していた、というのがほんとうのところなのです。彼女の「声」は、一昨年亡くなった、昔なじみの友人の喜美ちゃんの、女学生時代の「声」にそっくりだったからです。

    わたしは眼を細め、部屋の窓から戸外を覗き込みます。冬空よりもよほど水色をしたセーターを――近頃のひとはニットというのでしょうか――着た乙女が、あんず色の手袋を嵌めた手に白いものを持ち、三メートルほど離れたところにいる、樫の樹のような色合わせの服の乙女に、それを投げつけようとしてます。樫の樹ガールは、顔、ではなく、なぜか耳を両手でおさえると、胸元でその白いものを受け止めました。白いものがはじけ、あたりに散らばり、一面の白いもののなかに埋もれます。なるほど、雪が積もっていたようでした。道理で冷え込むわけです。

    今度こそココアに口をつけながら、わたしはそっと、左手でお腹を押さえました。胃にスキルス性のがんができていることが判明してから、今日でおよそ半年が経ちます。手術に持ちこたえられるほど、わたしは若くはありません。あとどのくらいわたしの生命は保つのか――そんなことを考えながら、失せつつある食欲のなかで少しでもカロリーを、と考え、近頃朝は、砂糖をたっぷり入れたココアを飲むようにしています。もともと甘いものは好きですから、さほど苦にはなりません。

    もしかすると喜美ちゃんが迎えにきたのかもしれない。そんなふうにふと思ったのは、あらかたココアを飲み終えてからでした。十五年前に先立った夫ではなく、なぜ喜美ちゃんが? そりゃあ確かにわたしと喜美ちゃんは、無二の親友でした。水魚の交わり、といっても決して過言ではありません。戦時中はおそろいの布で防災頭巾をつくり、わたしが田舎へ疎開することになった際には、抱き合って涙を流しましたっけ。そうして、敗戦を迎え、それから、お互いに伴侶をもち、めまぐるしく変わっていく日本の様子を横目に少しずつ齢をとっていきながら、わたしたちは年に一度は顔を合わせて近況を報告しあうという、そういう仲でした。

    喜美ちゃんは、旦那さんと折り合いがあまりよくないようでした。近況報告の半分以上は、夫がうるさい、夫があれをしてくれない、そういう愚痴に終始し、正直に言うのなら、それに辟易することさえありました。でも、人は変わるものです。その変化を受け止めてこそ友情というものではありませんか。それに、ひとしきり夫の悪口を並べ立てた喜美ちゃんは、さっぱりした顔で言ってくれたものです。フサちゃんはぜんぜん変わらないね、と。それを聞いたわたしはうれしかったか? ん? とわたしは思います。「うれしかった。」ではなく、「うれしかったか?」とは。いったいなぜそんなふうに思うのでしょうか。

    きゃーっという叫び声がまた聞こえます。今度は喜美ちゃんとよく似た声――ではありません。おそらく樫の樹ガールが今度は叫び声をあげたのでしょう。交互にあがる叫び声。そういえば――と、わたしは思います。年に一度の集まり、わたしのほうから声をかけたことはなかったな、と。いっつも喜美ちゃんが、逢いたいな、というわたしの気持ちを見透かしたようなタイミングで声をかけてくれ、そうして旦那さんの愚痴に長広舌をふるう、というのがつねでした。いえ、ここ最近のことだけではない、よくよく考えればいつもそうでした。わたしのほうから喜美ちゃんに対して行動を起こしたことは、なかった。わたしはなにも言わなかった。防災頭巾の布でさえ、決めたのは喜美ちゃんでした。いま、はっきりと思い出しました。わたしはもう少し暗い色のほうがよかったのに、喜美ちゃんが、派手、とは言わないまでもちょっと明るめの色の布を選んで、ふたりして先生に怒鳴りつけられたのですから。しくり、と胃が痛みます。わたしは喜美ちゃんのなんだったのでしょう? それを言うのなら、喜美ちゃんはわたしのなんだったのでしょう? さっき「水魚の交わり」と思ったばかりなのに、ふいにそんな疑念がわたしをとらえ、鶏の脚のようにわたしの心をぎゅっとつかんだのです。

    何か、祈るような、すがるような気持ちがこみあげるままに、わたしはふたたび窓の外を見――そうしてぷっと噴き出しました。

    乙女たちは、雪の上で大の字になっていました。この寒い折ですから、いまどきの乙女たちは当然ずぼん姿です。とはいえ、なんて無防備、なんたる無茶!

    そのときになってようやく、わたしは思い出したのでした。疎開先から帰ってきた、あの日のことを。東京へ向かう列車のなかで、久しぶりに喜美ちゃんに会えるよろこびで、わたしは胸を弾ませていました。けれども列車から降りたわたしをプラットフォームで待ち受けていたのは、ぎゅっと拳を握りしめ、いまにも泣きそうにしている喜美ちゃんの姿でした。わたしを認めると、喜美ちゃんは駆け寄って来、わたしが疎開に行く時よりも盛大に泣きじゃくりながら、わたしを抱きしめたのでした。

    ――ふ、フサちゃんが死んでたら、あたしも死ぬって思ってた。

    肩に落ちる涙のあたたかさを感じながら、わたしは思います。ああ、やっぱりわたしたちは、友達だった。おそらく、いま雪の冷たさを全身で感じているだろうふたりの乙女たちとおなじくらいには、しっかりと。口に出せなかったこと、口に出しすぎてしまったこと、そういうのを全部ひっくるめて――あれがあのときのわたしたちの最善で最高だったのだ、と。

    天国に行ったら、喜美ちゃんに伝えなきゃ。わたし、あなたが旦那さんの悪口を言うのが少し苦手だったの、と。でも、喜美ちゃんがいてくれたから、わたしの人生は楽しかったよ、と。

    もう一杯ココアを出そうとわたしは袋を開け、もう残りが少ないことに気づきます。さいわいお天気も回復しているようですし、午後になったらまたココアを買いに行こう。新しいココアを買うのだから――せめてそれを半分は飲み干すまで、わたしは生きなくちゃ。

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    食器の方程式

    洗った食器を片づけることほど業腹なことは、「生活」の中にはない――とは言えないからこそ、わたしはためらっているのだ。洗濯物だってそう。自分のものではない髪の毛が自分の家の洗面台に散らばっていたりなんかしたら、わたしはきっと、怪獣みたいに炎を吐くことこそないけれど、かちんときてしまうだろう。

    ……なんだか水回りのたとえばかりになってしまったが、要するにわたしは、「業腹」とまではいかなくても、その一連の作業が、確かに「嫌い」ではあるのだ。ましてやそれを、他人のために行うとなると――。

    事の発端はこうだ。わたしの通う学部では、二年次からキャンパスが移転する。それも、一年次までのキャンパスとは、県境を跨ぎこすくらいには遠くに。当然のようにそれに伴うことといったら? そう、引っ越しだ。もちろん、両方のキャンパスの中間地点あたりに家を借りる、という手もあるが、その中間地点というのが、ちょうど、東京都中央区で言うのなら、銀座のあたりになってしまい、篦棒に賃料が高い。だいたい、電車に揺られる時間があるなら一分でも一秒でも長く、惰眠をすやすやむさぼりたい、というのが乙女心というものではないのか。

    「うーん、ここもダメ!」

    不動産屋さんからもらってきたチラシに、わたしは大きく赤ペンで×をつける。長谷川さんは、コタツ(わたしの部屋には一人暮らしの淑女の嗜みとして、コタツがある)の上にわたしがおいたチラシを手に取り、N字に目を走らせると、軽く首を傾げた。

    「良さそうだと思うけど?」

    「ベランダが北向きじゃない、この部屋」

    「あ、ほんとだ」

    「タオルとかはさ、やっぱり日のあたる場所に干したいんだよね、わたし的に。毎日使うものだし」

    「そうだねー。たしかに」

    長谷川さんは、クリアPP加工がされたチラシをていねいに半分に畳み、それからもう半分に畳むとゴミ箱に捨てる。それから、おせんべいを一枚取り上げ、

    「いまのところ、柏木さんのお眼鏡に適うところはないの?」

    そう言って、ぱりん、とおせんべいを齧る。

    「うーん、ないわけじゃなくて……」

    わたしはお茶を濁す。これは、慣用的な表現ではなく、煎茶をゆのみからすすったらお茶が文字通り濁った、の意味だ。お茶が透明になるのを待ち、わたしは答える。

    「一件、すごくいいとこがあったんだけど。ちょっとそこはひとりで住むには広くって。家賃がそのぶん高くなっちゃうし。どこかで妥協しなきゃならないんだけどね」

    「そうだよねー。妥協必要だよねー」

    長谷川さんは、おせんべいの最後のひとくちを口元に持って行きかけ、そうして、ふと、あ! と電球マーク型の声をふいにあげた。

    「じゃあさ、柏木さん、もしよかったら、だけど、みどりとルームシェアしない? じつはみどりも住む部屋まだ決めてなくて。みどり、あんまり住むとこにこだわりないから、北向きの部屋でも、事故物件でも、だいじょうぶだよー」

    「るーむ、しぇあ」

    鸚鵡返し、という言葉があるけれども、鸚鵡のように音調や抑揚もそっくりにことばを返せるのなら、じつはそれは大したものだろう。わたしは、言われたことの意味が即座にはよくつかめずに、あたかもカタカナのことばをひらがなにしたような返事をする。

    「もちろん無理にってわけじゃないけど、みどり、なんとなく柏木さんとなら、いっしょに暮らせるかなあって思って」

    「るーむ、しぇあ、かあ」

    そうして、わたしはコタツの上に置かれた急須とほとんど空になったふたつのゆのみを目に留めて、冒頭の思考へと立ち戻るのだった。

    そりゃあ長谷川さんはいい子だ。趣味も合うし、たぶん部屋の汚さ……おっと、きれいさも、おんなじくらいだ。でも、わたしが他者と暮らす? 人が使った食器を洗う? わたしが? そりゃあ、たまにならいいけれども、毎日まいにちそれを繰り返す?

    わたしに果たしてそれが出来るのだろうか?

    長谷川さんは、わたしが返事を躊躇しているのを気にとめている風情もなく、もう一枚おせんべいに手を伸ばし、お茶の最後のひとすすりまで飲み終え、

    「ごちそうさまでした。あー、日本茶おいしかった!」

    と両手を合わせた。

    「いえいえ、お粗末さまでした」

    わたしがゆのみを二つもって立ち上がりかけると、

    「あ、柏木さんは座ってて」

    そう言いざまに、長谷川さんはわたしの手からゆのみを取り上げた。

    「え?」

    「洗い物はみどりがやるから」

    そう言うと、長谷川さんは、キッチンに向かい、水道のバルブをひねり、水洗いをはじめる。そんな長谷川さんの鼻歌を聴きながら、わたしの手のなかから消えたゆのみをじっと見つめる。

    ああ、そうか。わたし、だれかと共同生活したら、自分のやらなきゃならないことが二倍になると思ってた。でも、長谷川さんは、きっとわたしのやらなきゃいけないことを、二倍にしたりはしない子だ。それどころか、きっと、半分にしてくれる、そんな子だ。

    柏木さん、スポンジはどれ使えばいいー? と尋ねてくる長谷川さんに、わたしは、オレンジと黄色のやつ使ってくれるー、とコタツに座ったまま返事をする。うん、わたし、彼女とならやっていけそう。そう思いながら、わたしは、クリアファイルに挟みコタツの天板の下に隠してあった「とっておきの物件」のチラシを取り出した。

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    リボンちゃんの抑圧的犯行

    世の中にはふたとおりの人間がいる。探しものをするとき、「文字通り」箱や引き出しをひっくり返すタイプの人間と、そうではない人間だ。真魚ちゃんは前者のタイプで、そういう子がほんとうにいるとは――すなわち、そんな豪快に探しものをする子がいるなんて!――知らなかったみどりは少し驚いた。そうして、そういう探し方をするメリットがあるということも同時に知った。すなわち? 近くにいるひとが探しものをお手伝いできるという点だ。

    「あ、ごめんねみどりちゃん! 待たせたうえに手伝わせて!!」

    真魚ちゃんのとなりにかがみ込んだみどりに、ちょっと早口になって真魚ちゃんは言う。

    「ううん、いいの。映画七時二十分からでしょ? まだぜんぜんヨユーだし!」

    そう答えて、真魚ちゃんのコレクションのなかからお目当てを探すべく、みどり、軽く腕まくりをすると、笑って見せた。真魚ちゃんの寄っていた眉根が、軽くほころぶ。そうしてすぐにまた、きゅっと皺が寄る。

    「もう、なんで、ちゃんとおんなじところに片付けてるつもりなのに、見つからないのかなあ」

    「ああ、そういうことってあるよね。不思議だよね」

    そう、ほんとうに不思議である。真魚ちゃんは、そうしてみどりもだけど、整理整頓にそこまで無頓着じゃない。だって、「アカノタニン」が一つ屋根の下に暮らしているのに、たとえば脱ぎっぱなしのジーンズが共用スペースに置かれたりしてたらいやじゃない? 少なくとも、みどりたち、そこらへんの価値観は近いものを持ってると思う。

    にもかかわらず、真魚ちゃんは、お出かけ前になるとよく、あれがないこれがない、と言っている。くり返すけれども、不思議だ。今日探しているのは真っ赤なリボンが一面に散ったハンカチ(通称:リボンちゃん)である。三ヶ月ほど前、一緒にマルイに行ったときに購入し、みどりが知る限りはまだ一回も使ったことがなくって、今日がその、俗世間に対するお披露目となる――はずなのだが。

    「ないねえ」

    「うーん」

    きっちりとアイロンをあてられたハンカチの山のなかで腕組みをし出した真魚ちゃんに、お茶でも持ってきてあげようと立ち上がったみどりは、何の気なしにドアーのほうを見て(って言ったけど、何の気ありにドアーのほうを見ることなんて、あるのかしら?)、思わずはっとした。

    「……ねえ、真魚ちゃん」

    「なに? みどりちゃん」

    「あのね、みどり、ちょっと怖いこと思いついたんだけど」

    「怖いこと……えー、なんだろう」

    「もしかするとリボンちゃんは自我をもってるんじゃないかしら」

    「自我?」

    「そう、そろそろ使ってほしいな、ハンカチとしてのお仕事をさせてほしいな、っていう抑圧がたまって、ついに犯行に出た――」

    そう言ってみどり、おそるおそる、という感じで、今日真魚ちゃんが着ていく予定のコートのポケットのあたりを指差す。真魚ちゃんの視線がゆっくりと動く。

    「あっ!」

    真魚ちゃんが小さく叫びをあげる。

    「そうだった! コートのポケットに昨日入れておいたんだった! わー、ごめんみどりちゃん!!」

    「ううん、ぜんぜん! 見つかってよかったね、真魚ちゃん!」

    そういうわけで、若干の紆余曲折は経たものの、わたしたちはコートを着て、七時二十分からの映画を目指し、無事、家を出ることができたのだった。ふたりとも、万全におしゃれをして。

    映画館への道すがら、ふと真魚ちゃんがこんなことを言った。

    「みどりちゃんは天才ね」

    「天才!? ええ! 何言ってるの、真魚ちゃん」

    真魚ちゃんは軽く首を振ると、にっこり笑う。

    「いつもありがとう、みどりちゃん」

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    ぱらぱらのねぎ

    おいしいおかゆがつくれる子と、おいしい肉じゃがをつくれる子。日本にはどっちのほうが多いかって言ったら、まず間違いなく、「おいしい肉じゃがをつくれる子」のほうだって、みどり、思うのだ。そりゃあ中華料理にはおいしいおかゆがいっぱいある(らしい。まだみどりは食べたこと、ない)けれども、ジャパニーズ・ソウル・フードとしてのおかゆって言ったら、まず間違いなく、熱を出したときに食べる、ごはんをちょびっとの塩で味つけて煮込んだもの、じゃない? つまりね、みどりが言いたいのはこういうこと。おかゆって、あんまりつくり慣れるようなタイプのごはんじゃあない。事実、一年に一度、下手したら、数年に一度しか出番がないようなメニューだしね。おかゆをつくり慣れないような体に生まれついたことに感謝しなさい、って? そりゃあもちろん! まあ、ふだんなら。でも、たとえば、柏木さんが風邪をひいて寝込んでいるようなこんなときには、「おかゆおかゆ! おかゆ……おかゆ……?」、とまあ、みどりの眉間もしわしわになるというものよ。

    さいわいなことに――だなんて言ったらいけないけど――柏木さんはノロでもインフルでもないみたい。ただ、熱は高くて、あんまり食欲もない。うーんうーん。うなりながら、みどりは鍋にお米(炊いたの)を入れて、スマホでcookpadを開き、ぱっと目に入ったレシピを開く。もちろんプレミアム会員じゃないみどりと柏木さんは、いつもならあーだこーだ言いながら、あの手この手を使って「人気のレシピ」を探すけど、今日はそんな時間はない。熱を出した子のためにつくるごはんは、味よりもスピードにこそ、愛情や友好度が現れるっていうものよ。

    でも、やっぱり問題もあるかなあ。たとえば。みどりが参照しているレシピだと、梅干を使ってるんだけどさ、ウチに梅干なんて、ない。みどりの実家でも常備してなかったと思うんだけど、ふつうのおウチに梅干ってそうそうあるものなの? でも、確かに梅干が入ったほうが、彩りがあって食欲をそそる! 食欲がない子には、「食欲をそそるガイボウ」って重要じゃない?

    「梅干、かあ……」

    みどりの眉間はまたしわしわになったけど、そこで、はっ! と思いついた。万能ねぎ! 万能ねぎを散らせばいいんだ!

    冷凍庫を開けて、ジップロックも開けて、小口切りにしてあった万能ねぎをひとつかみ、おかゆにぱらぱら散らす。霜をまとっていたみどりいろがお湯で溶けて、「芽吹き」ってタイトルの一枚の絵みたい。うん、いい感じ、じゃない? 火を止めながら――ありがとう、柏木さん、って、心の中で、みどりは柏木さんにお礼を言った。だってね。

    ねぎを小口切りにして冷凍しておく習慣は、みどりのウチにはなかった。みどりのママ、ネギっていうか香味野菜全般好きじゃなかったからね。だから、みどりにとって「ねぎを小口切りにして冷凍する」っていうのは、蓄音機に匹敵するくらいの大発明だった。

    「へー、便利! 柏木さんすごーい」

    「すごくないすごくない」

    なんでもないことみたいに笑って、柏木さんは小口切りにしたねぎを入れた(ねぎを切るのも、柏木さん、とっても上手だった!)ジップロックの空気を抜くとをぷちぷちぎゅーっと閉じた。その一連の動作には、なんだろう、照れ隠し的なシツヨウさが全然なくって、みどりは柏木さんのことをますます尊敬した――のとおんなじくらい、さみしくなったのを覚えてる。

    なんでだろう?

    ふっと、お椀におかゆをよそいながら、そんなことを考える。少し考えて、「たぶん、なんでも当たり前にできてしまうのは、すごく孤独なことだからだ」、そんなアイディアがひらめいた。

    柏木さんは、才媛、っていうのかな、お勉強もできるし、頭の回転も速いし、みどりのあこがれだけど、もしかしたら、「あこがれられ」、っていうのは、場合によっては人を孤独にして、人を傷つけることもあるのかもしれない。みどりはほんとうに心の、心の、心の奥底から柏木さんを尊敬しているんだけれども、もしかするとそういうのは、柏木さんにとってはさみしいことなのかもしれない。

    じゃあ、どうすれば、あこがれを抱きつつ、あこがれの対象となってるそのひとを傷つけずにいられるんだろう?

    これはずいぶんあとになってからだけど、みどり、思いついたことがある。それは、「注がれるあこがれとおなじくらいのあこがれを注いでもらえるような人間になればいいんだ」ってこと。でも、みどり、ばかだからそのときはそんなことわからなかった。でも、みどり、ばかだけど、勇気だけはあるほうだから、お盆にお椀を載せながら、ドアーをノックし、ごくんと唾を飲んで、

    「真魚ちゃん、おかゆできたよ」

    はじめて柏木さん――否、真魚ちゃんを、ファーストネームで呼んでみたの。

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    ティファールの小人

    タイトルは確か「こびとのくつや」だっただろうか。職人が寝ているあいだに、どこからともなくこびとがやってきて、親切にも徹夜で革を切ったり縫ったりして、その仕事を完成させてくれる、という有名な童話のタイトルは。機械化や高速化が進んだ現代では、ちょっとなかなかありえそうにない話、なのだが――さてさて、そういう世の中にあって、むやみやたらと勤勉なこびとというものは、もう、どこにも存在の余地がなくなってしまったのだろうか? ノン。いまでも、親切なこびとの存在を感じる瞬間、というものは、いくらでもある。たとえば? そう、たとえば――ティファールの湯沸かし器でお湯を沸かしている、そんな瞬間がそれだ。

    そもそも。ティファールの湯沸かし器のことについて、いったいぜんたいどのくらいのひとがご存知なのだろうか? あの、水を入れ、パカッと蓋を締め、ポチッと把手のところについたボタンを押すだけでお湯が沸かせる、あの家電のことを? 薬罐よりもお手軽に湯を沸かせて、しかも、比喩として以外の火は用いずにお湯を沸かすことができる、比較的安心安全な装置。(ただし、蓋の中央を押したままにしておくと、お湯が泉のように口の部分からあふれ出たりするのもご愛敬。)けれども、それが安心安全であればあるほど、わたしは想像してしまうのだ。具体的に言うのなら、ケトルの底で原始的な火を焚き、原始的な薪をくべ、ふうふうと原始的なファイヤーブラスターで炎に息を吹き込んでいる、そんなこびとたちの姿を。

    世の中には、目には見えない驚異的な力があふれている。それは、たとえば物理の世界では解明されているもののこともあれば、どんな理性でもまだ解明できていないもののこともあるけれども、あいにくと、理系科目についてはとんと芳しくないわたしにとっては、幽霊も、慣性の法則も、さして違いのない「大いなる不思議」だ。そういうものを理解しようとするとき、わたしの場合、こびとがお出ましになる。要するに、「あれはこびとさんの仕業なんだよ」というような仕儀だ。この習慣は、良きにつけ悪しきにつけ、さまざまな場面で顔を出し、お豆腐を腐らせてしまったとき、適当に味付けをした野菜炒めがことのほかおいしかったとき、わたしはこびとさんに思いを馳せ、ぷんすか怒ったり、ありがとうと手を合わせたりするのだ。

    いま。わたしのそばには、みどりちゃんというひとりの女の子がいて、「あれはこびとさんの仕業なんだよ」とわたしがぽつりと口にしたりしたら、彼女はきっと、「えー、真魚ちゃん、なにそれ!」と、決してわたしをばかにするふうにではなく、興味津々の体で尋ねてくるだろう。でも、なんとなくそれを口にするのが憚られるのは、お祈りを口にしたらかなわなくなる、とか、それもあるけど、なにもかもを口に出してシェアする友情、というのに、わたしが臆病だからだ。だって、そんなことをしていたら、いつかは中身が底尽きて、からっぽになってしまって、そうしてわたしがみどりちゃんとけんか別れするときがくるとしたら、そのとき、わたしはいったいどうなってしまう? 考えるだけでぞっとする。


    だから、わたしはティファールがお湯を沸かしてくれるのを見ながらいつも、こんなふうにぼんやりと考えるのだ。

    わたしとみどりちゃんのあいだにずっと、友情の糸をつなぎとめてくれるこびとがいてくれますように、と。


    おいしいダージリンを入れてみどりちゃんを呼ぶころには、わたしはもう、ティファールのこびとのことを、きっと忘れている。

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    魔殴ちゃんと魅怒離ちゃん

    「むかしむかしあるところにまなちゃんとみどりちゃんというおんなのこがすんでおりました」

    ……よくある誤植、といえば、もちろんそれはそうである。「真奈」とか「麻魚」とかだったら、わたしとしても、スミマセンシンジツノシンニサカナデマナナノデナオシテイタダケマスカーで、一笑に付せることだ。けれども、みどりちゃんは、ささやきと言ってもいいほど神妙な声で、まるで蠟燭の火を吹き消すときのような声で、そっと物語を語りだす。物語。わたしはふと、読者をぺてんにかけたくないストーリーテラーなんてこの世にいるのだろうか、と、そんなことを考える。

    「ふたりはたいそうかわいらしいおんなのこだったので、それが、ふたりのおとうさんとおかあさんたちにとってはしんぱいのたねでした。というのも、ふたりのすんでいるむらのちかくには、それはそれはわるいまじょがすんでいて、いやらしいことに、よぞらのほしからめざしのうろこまで、ありとあらゆるきらきらかがやくものは、かのじょのほっするところ、ほしいままとするところだったからです。つまり、おとうさんとおかあさんたちは、まなちゃんとみどりちゃんが、そのきらめきゆえにまじょにかどわかされることをおそれたのでした」

    わたしはテーブルの端に置かれたスタバのタンブラーに手を伸ばす。タンブラーの中身は、季節もののフラペチーノ、などではなく、定番のソイラテだ。口をつける。特に予定がないけど、家にいるのもかったるいときみどりちゃんと出かけるスタバのソイラテの味がする。

    「そこで、ふたりのおとうさんとおかあさんたちは、むかしのひとのひそみにならい、ひどくしゅうあくなもじをかりて、ふたりのなまえをつけました。そう、まなちゃんのまにはあくまの魔、みどりちゃんのどにはいかりの怒というもじをつかって」

    なんというおどろき! みどりちゃんのいうことが、万が一にも嘘八百でないとするのなら、わたしのほんとうの名前は、柏木魔魚ということになる。もしもわたしが、みどりちゃんの話を真に受けたのだとしたら、ここで、ごくり、と唾をのんだことだろう。

    「……それで?」

    わたしはタンブラーをテーブルの上に置きながら続きを促す。

    「ふたりにつけられたきたないなまえは、ふたりをうまくまじょのめからかくしてくれました。けれども、ふたりがよんさいになってしばらくたったあるひ、とうとうまじょがふたりをみつけてしまったのです。――ふたりがひらがなをおぼえ、じぶんのなまえをひらがなでかいてしまったから。まじょはふたりをらちすると、ふたりをころし、なべでぐつぐつにて、しちゅうにしてたべてしまいました」

    思わずわたしは両手で口元を覆う。わたしのおおげさな動作に、テーブルのうえから、「柏木魔魚 様」(原文ママ)という宛名の書かれたダイレクトメールが、ひらりと零れ落ち、バレエを習いはじめたばかりの少女のように、ぱたんと床に倒れる。いったいだれが、それを見ただろう? わたしとみどりちゃんしかいないこの部屋で?

    「つきひはながれ、やがてまた、むすめがふたりうまれました。ふたりのおとうさんとおかあさんたちは、こんどこそかわいいむすめたちがかどわかされないように、よりいっそうふたりのなまえをしゅうあくにしました。まなちゃんには魔殴というもじを、みどりちゃんには魅怒離というもじをあてて。けれども、かんじがふたつかさなるとき、それはしばしばおもいもかけないいみをもったりもするのです……」

    今日はいいお天気だ。カーテンの隙間から差す日差しに、みどりちゃんの髪が、デンマークの河に浸かるよりもずっと前のオフィーリアのそれのようにきらきらと光る。わたしはそれに、目を、ではなく、心を奪われる。つまり、だらしない言い方をするのなら、ぼおっとする。ポテトチップスのかけらが降りそそぎそうなほどに退屈な午後、暇を持て余した人間どもの遊び。わたしたちの時間は、あふれるほどにいっぱいで、流れることもなく、終わらない。

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    洋菓子と秘密の共有

    わたしたちは待ちきれなかった。珈琲機のなかでお湯が沸騰する、その瞬間を。棚のいちばん高いところにしまってある秘められた色の水仙があしらわれた美しい食器を背伸びして取り、テーブルのうえに銀器とともに並べる、その他愛のないひと手間を。アパートのドアーを開け、踊り疲れたくつを脱ぎ捨てる、そんなことすらももどかしく思えた。ここは目白、緑がまるで、乙女の清らかな手によって――乙女というものが、この世界にまだ健在するとしての話だが――ていねいに磨き抜かれたような五月、駅前のソリッドなベンチ――というか、平たく言うのなら直方体の石――のうえに、わたしたちは腰をおろしている。

    世の中のお菓子を用途で分類するのなら、たとえば、こういうのもありなのではないか。たとえば――歩きながらもしゃもしゃ食べうるものと、お家に帰ってしっぽり頂くものと。けれども、わたしたちは待ちきれなかった。百円ショップを見つけたわたしたちは、どちらからともなく示し合わせたように首を縦に振り、プラスチックのフォークを求めた。お洒落な街で、血眼になって座れる場所を探した。そうしていよいよ、紙でできた扉を開くときが来る。

    お客様を、わたしたちは鄭重に取り扱った。スマホで写真を撮り、インスタにアップした。お客様の絶妙にコーディネートされた衣装に、わたしたちは改めて息を呑んだ。素敵だね、と言い合ったわたしたちには、少しお互いを探るような感じがあったかかもしれない。たぶんわたしたちは、すぐにそのことに気が付いた。

    「じゃあ、食べようか」

    みどりちゃんが言う。パッケージからフォークを取り出しながら、わたしは言う。

    「うん」

    はじめはゆっくりと、それから徐々に性急に、わたしたちはケーキにフォークを突き付けた。もちろん、フォークに突き付けたあとには口に運んだ。わたしたちは焦っていた。わたしたちは、通行人の視線も気にならなかったわけではないと思う。わたしたちは、クリームが口元につくたびに、指先でそれを拭って、またすぐにケーキにとりかかった。そういう意味で、わたしたちは非常に勤勉だった。

    「こんなかっこう、ママに見せられないね」

    「うん」

    わたしは頷く。口に含んだ瞬間に上品なバナナが香り立つカスタードクリームを、わたしは培養皿シャーレになったつもりで受け止めた。ケーキが上品であればあるほどに、おいしいものであればあるほどに、わたしのなかで、アンバランスすれすれに募っていく思いがあった。わたしたちのあいだの秘密。わたしたちのかかえる背徳感。たぶんそれは、すごくすごく大事なもの。いまはまだ使えない、というか、使おうとしても意味のないものだけれど、いつかそれはきっと、思い出という国に立ち入るためのパスポートになる。

    「……おいしい」

    その一言をみどりちゃんが 口にしたのは、タイミング的にはかなり遅かった。なにせケーキというケーキが、あらかたわたしたちの目の前から、忽然と姿を消したあとだった。でも、そのズレが、歪み真珠的に輝くのを、わたしはしっかりと目のあたりにした。わたしは、いつもならやすやすとする同意を、今日は示さなかった。だって、そうじゃない? 神聖なものにぶつかってしまったら、骨や筋肉を動かすどころじゃないもの。

    そうしてわたしは、満を持してやってきた最後のひとくちをじっくりと味わうこととなった。決して開かれることのない封蠟によって閉ざされた手紙のような、砂糖細工の永遠を、そのときわたしは希求した。もちろんそれには、あと一歩のところで届かないことを知っていて。

    まっしろな沈黙。その気配に慄然としそうになる前に、

    「ごちそうさまでした」

    この世の中でもっとも使われているのにちっとも古びない、便利なエンドマークのひとつを、わたしは口にした。なぜなら、わたしたちには、回帰せねばならない場所があったからだ。けれどもまだ――わたしは、エンドマークのそのあとに、みどりちゃんが折りたたむようにして潰した、ケーキの入っていた紙の箱を、とても綺麗だと思ってしまったから。

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    かわいいお葬式

    ひとめぼれしたTSUMORI CHISATOのピンクのカーディガン。奮発して買ったagnès b.のかばん。とってもチャーミングなJOURNAL STANDARDのピーコート。バレリーナでもなきゃつけないようなチュチュ、なんてのもある。けれども、ふだんはわたしのクローゼットの中に眠っているそれらの存在を知っているのは、この世界においてみどりちゃんしかいない。

    「もったいない! もったいないよ、真魚ちゃん!」

    ことあるごとにみどりちゃんはそう言うけど、でも、ねえ。NICOLEのタイトなラインのシャツを胸の前に当てて、ぎゅっと抱きしめ、そうしてていねいに折りたたみながら、わたしは応える。

    「着て汚しちゃう方がもったいないじゃない」

    「うーん、その気持ちもわからなくはないけどさ」

    そう言うみどりちゃんは、というと、わたしとおなじくNICOLEで買った、派手な柄物のTシャツを着ている。新品だ。とは、そう、つまり、さっきわたしとバーゲンに行って買ってきたばかりのほやほやの、ということである。

    こういうお説教は母(存命だ)にもよくされていて、その常套句として用いられていたのが、「着てあげないと服がかわいそうじゃない」というものだ。理がないとは言わない。一方でみどりちゃんは、と言うと――

    「みどり、そのお洋服来た真魚ちゃんとお出かけしたいよお。いや、いつも着てるのもかわいいんだけどさ」

    なるほど、こちらは「理がないとは言わない」というよりは、「一理ある」。わたしも、みどりちゃんが新品の服を着ているのを見ると、気持ちがうきうきぷかぷかするもの。

    タグ札を慎重に切ってごみ箱に捨て、わたしはライムグリーンのTシャツをゆっくり広げると、立ちあがり、それを胸の前に当てて見せる。

    「似合う?」

    「うん、とってもよく似合うよ」

    今度は裏っ返して、わたし自身もうしろを向いて、背中に当ててみる。

    「似合う?」

    「うん、すっごくすっごくかわいいよ、真魚ちゃん!」

    ふう、とわたしは満足して息を吐く。そうして腰をおろし、ゆっくりとTシャツを畳んで膝の上に載せると、ちょっとおどけたように言った。

    「はい、おしまい」

    案の定みどりちゃんは、ちょっと不平げな顔をした。

    「ええー、明日学校に着てかないのー? やっぱり?」

    「うん」

    わたしは頷く。そうして、みどりちゃんは、いったいわたしが何をおかしがっているのか、きっと訝しがったことだろう。実際のところは、おかしかったというよりも、うれしかったというほうが近いのだけれども。

    「こういうのはとっておきのときに着るためのものなの」

    「とっておき?」

    「そう」

    そう、たとえば、みどりちゃんとふたりで、ピクニックに行くときとかね。

  • 小説

    ビニール傘はおひさまの夢を見るか?

    「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」。言わずと知れた、フィリップ・K・ディックの有名な小説のタイトルである。ただ単に有名なタイトルというだけではない、きわめて蠱惑的で、数知れないエピゴーネンを産み出してきたタイトルである、ということまで、皆様先刻ご承知おきのことだろう。

    ビニール傘はおひさまの夢を見るか? だからみどりちゃんを見て、そんなキャッチコピーが浮かんだのも、俗悪と言うほどではない――いや、っていうかむしろ、こういうのを俗悪っていうのかしら? ともかく、雨傘がするのは一般的に言って日光浴ではない。水浴びである。ましてや、ビニール傘ともなれば、へたをすれば百円ショップ、一回こっきりの使い捨て、ぱくられたって痛痒なし、と、そういうものじゃない? それとも、ビニール傘を布の傘みたく干すのって、一般的なことなのかしら?

    部屋の入口に手をかけて突っ立っているわたしに気付いたのか、みどりちゃんは顔を一度あげ、それから、まるでお肌にクレンジングオイルを塗るように傘についた雨粒をふたたび拭いだすと、ひそめた声で言った。

    「これね、お気に入りの傘なの」

    「お気に入り」

    小心な鸚鵡のように、わたしはくりかえす。

    「オレンジのビニール傘ってなかなか売ってないんだよね。もう三年使ってるから、そろそろ暇を出してあげたいんだけど……」

    「三年!?」

    正確に言うのなら、わたしが驚いたのは期間それ自体ではない。ビニール傘のような大量生産の規格品を、いつ買ったのかきちんと口にできる、みどりちゃんの記憶力のほうだ。

    「すごいね……」

    「……? 何が?」

    みどりちゃんは、きょとんとした顔をしたけれども、でもわたしは、ふう、とため息。そうして、部屋を横切って、みどりちゃんの横に腰を下ろす。

    もし歳月に重みというものがあるのだとしたら――そんなことをわたしは考えていた――歳月というものに重さを与えるのはきっと、クロノスのような神様ではなく、みどりちゃんのようなひとなのだわ。愛は地球を救う? それは――どうだろう。けれども、計量スプーンでものの重さは量れないように、愛着を用いることでしか探りあてることのできない世界、というのは、きっとあるのだ。

    次の雨の日には、みどりちゃんとお出かけをしよう。オレンジのビニール傘をさして、オレンジのビニール傘を探して歩こう。大切にできるようなビニール傘を、わたしも見つけよう。

  • 小説

    カレーの作り方

    篠田女史は悩んでいた。というのも――。

    レポートを紙ヒコーキにして遠くまで飛んだら優、とか、女子は水着でテストを受けたら落とさない教授がいる、とか、とかく単位のつけかた(つけられかた、と、学生目線で言うべきだろうか)に関しては、さまざまな風聞があるものである。篠田女史のもとにも、それを真に受けたとおぼしきレポートが、時折舞い込むことがあった。

    柏木真魚。たとえば、彼女は非常に優秀な学生だが、そのレポートもまた、篠田女史にとっては非常に満足のゆくものであった。問題提起の仕方も実直だったし、そうして、立てられた問いに対する分析および結論には目新しいところがあった。篠田女史は、彼女のレポートには迷わず優+をつけたのである。問題は――。

    彼女といっしょにレポートをもってきた、長谷川みどりのほうである。そのタイトルを(さあさあ、とくとご覧あれ)ここで披露することにしよう。ずばり、「おいしいカレーの作り方について」。ちなみに、篠田女史の担当講義は近代日本文学であり、インド料理はおろかウパニシャッドにも馴染みはない。

    いやいや、もちろん、たとえば近代日本文学において、カレーという表象がどのように取り扱われてきたのかを取りまとめたレポートである可能性もあるのだから、タイトルだけで判断するわけにはいかない。そう思って、篠田女史は首を振ると、読みはじめたのだが――。

    ところで、篠田女史のカレーの作り方と言ったらこうだ。まずフライパンに油をしき、玉ねぎを炒める。玉ねぎがしんなりしてきたところで他の野菜もくわえて炒め、野菜にある程度火が通ったら、豚肉(という時点で、彼女のカレーの方法論が敬虔なムスリムの手によって齎されたものでないことは、容易におわかりいただけるかと思う)を炒め、水をくわえ、コンソメを入れ、細かく砕いたルウ(バーモント派だ)を入れ、弱火でぐつぐつと煮る。彼女のもとに、「カレーの作り方」を提出してきた学生はほかにもいて、おおむねやり方は同様であり、その単位は不可、不可、不可である。篠田女史は、残念ながら、シナモンロールのようには甘くはないのだ。では、長谷川みどりの場合も同様に? いやいや、それについて語るには、彼女のレポートをひもといてみなくてはなるまい。

    「まず熱したフライパンにバター三十グラムを溶かし、クミンシード大さじ一を弱火で炒めます。」

    くみんしーど? もちろんそれは、あのカレーの香りを引き立たせる代表的なスパイスのひとつであるのだが、篠田女史がそのことを知ることができたのは、長谷川みどりのレポートを読み、たかたかと目の前の端末の検索ボックスに、「クミンシード」と打ち込んだからである。篠田女史は、食事に対しての関心が、残念ながら太いとは言えないのだ。

    「クミンの香りがしてきたら、みじんぎりにした玉ねぎ一個を入れてしんなりするくらいまで炒めます。飴色になるまで炒めたほうがおいしいですが、そこまで炒めなくても構いません。」煌々と、パソコンのバックライトに照らされた篠田女史の顔の上で、眼鏡がくいと持ち上げられる。

    「次に、一口大に切った鶏肉をいれます。鶏肉には塩コショウで下味をつけておきますが、これも面倒くさかったら省略して構いません。鶏肉に火が通ったら、クミンパウダー大さじ一・五、コリアンダー大さじ一、ターメリック大さじ一、チリペッパー小さじ〇・五をくわえ炒めます。」コリアンダーとはパクチーの別称であり、ターメリックとはうこんのことであり、チリペッパーとは要するに赤唐辛子の粉末である。それでは、クミンシードとクミンパウダーを使い分ける理由とは何か? 濱畠啓子氏はこう書く。「スパイス&ハーブの香りは、一般的に、植物中の組織や細胞の中に閉じ込められており、香りが閉じ込められている組織・細胞を壊すことで、鮮烈な香りを楽しむことができます。したがって、粒度の小さいもの(細かく粉砕したもの)ほど、瞬時の香り立ちが良いという特徴があります。反面、香りが飛びやすいという性質も持ち合わせます。一方、粒度が原形(ホール)に近いほど香りが飛びにくいため、じんわり徐々に料理に香りをつけたいときに適しています(砕いたりせずに用いる場合)。」(https://www.sbfoods.co.jp/recipe/supportdesk/120312_qa.htmlより。)ふう、篠田女史はと椅子にからだをもたせかけ、そのときに発生した摩擦によって、背もたれにかけられていたカーディガンが、ばさりと床に落ちる。

    「ホールトマト一缶を入れ、つぶしながら、固形コンソメ一個、塩小さじ〇・五、こしょう少々を加えます。生クリーム二〇〇ミリリットル(ココナッツミルクでもおいしいです)をくわえ、さらに牛乳一〇〇ミリリットルをくわえ、よく混ぜ、バター二〇グラム、ガラムマサラ小さじ一をくわえ、全体がなじんだら出来上がりです。(もちろん、時間をかけて煮込んだほうがおいしいです。)」

    篠田女史は悩んでいた。というのも――。

    篠田女史のリビングのテーブルのうえには、近所のスーパーのビニール袋が置かれている。その中身は? 先述した長谷川みどりのレポートに出てきたスパイスたちである。もちろん長谷川みどりのレポートは、レポートとしては、本来ならば、まったくもって不可である。だが、しかし。こうは考えられないだろうか? いったいぜんたい、どこの世界に、たいして仲もよくない関係の他人に、カレールウのパッケージに載っているようではない、いかにも秘伝めいたカレーのレシピを教えてくれる人物というものがいるだろうか? 自分はこの「告白」を、鄭重にあつかうべきではないか?

    とりあえずこの手順どおりに、スパイスからカレーをつくってみる。もしまずかった場合には、遠慮会釈もなく、不可だ。では、もしおいしかった場合は――やれやれ、篠田のレポートは、カレーのレシピを書けば落とされない、といううわさが流れることに、甘んじなければならなくなるであろう。