• 小説

    夏空一過

    こんなところに隠れるんじゃなかった、と、ヒロノブは後悔していた。縁の下はじめじめしていて、やたらと蟬の鳴き声が大きく響いて聞こえる。ズボンもシャツも、母親に叱りつけられるくらいには汚れているだろう。何よりここは――そう思いながら、ヒロノブは掌で地面をそっと撫でる――何よりここは薄暗くって、まるで星のないプラネタリウムみたいだ。当初は妙案と思えた隠れ場所も、ヒロノブが臆病者であることを勘案すると、決して最良の場所とは言えないことが次第しだいにわかってきた。とはいうものの、この場を飛び出したら、鬼役のタケにすぐ見つかってしまうだろう。陽気におーいヒロノブどこだー、と呼ばわるタケの声が、その陽気さも含めて、今のヒロノブには酷く恨めしかった。

    それでも、ヒロノブがなんとか持ち堪えることができていたのは、二本の白い足のおかげだった。二本の足は、おそらく母親のものだろう、洗濯物でも干しているのか、あちらとこちらを行ったり来たりしている。あの足がぼくの目の前にある限り、ぼくは鬼には捕まらない。(きっと母親は、自分を守ってくれることだろう。)そんな安堵ゆえに、ヒロノブは縁の下で息を潜め、自分を匿うことができていたのだった。

    ヒロノブが違和感に気付いたのに、特にきっかけがあったわけではない。ともかくヒロノブは、やがて、自分の目の前の足が靴を履いていないことに気がついた。たとえ庭でも裸足で外に出るな、と、母親はヒロノブに口を酸っぱくして言っている。そんな母親が裸足で洗濯物を干したりするだろうか? そんなふうに考えてみると、その足は、いささかばかり白すぎるように思えた。ヒロノブの母親は地黒なのを気にしていて、外で遊びまわっているヒロノブと同じような肌の色をしている。果たしてそんな母の足を「白い」と自分は思うだろうか? それじゃああれは、と思った瞬間、でろん、と長い尻尾が、裸足の足の間から垂れ下がった。

    悲鳴をあげそうになるのを、ヒロノブは懸命に押し殺した。泥まみれの掌を口元に押しつけ、必死で息を殺す。髪の生え際から、冷たい汗が、火に炙られた蠟のように滴ってくる。白い長い足は何かを待っているように、トントン、と大地を叩く。それからまた、右往左往を始める。一体自分は何を見ているのだろう。一体何が起こっているのだろう。でも、これは見てはいけないものに違いない。もし見ていることが露見したら――。ヒロノブは寝そべったまま後退りをはじめようとした。けれども、そんなヒロノブの目の前に、さらに一対の足と一本のしっぽがどこからともなくやって来て、ヒロノブは喉の奥で掠れた声を思わずあげた。幸いなことに、足は四本のうちのどれも膝を曲げることなく、つまりは、かがみこんでヒロノブをのぞき込もうとすることなく、爪先と爪先で口づけをするように相対していたのだけれども。

    やがて、後から来たほうの足が、すっと白い足の横に並ぶ。四本の足はゆっくりと歩調を揃えて歩き始める。あの時のもったりとした時間の流れ方を、生涯自分は忘れることはないだろう。ともかく、足はヒロノブの視界から消えた。それから、さらに幾許かの逡巡があった。けれどもヒロノブは、ようよう縁の下から外へ出る。

    とたんに、激しい夕立が、ヒロノブに襲いかかった。ヒロノブは目を細めて空を仰ぐ。まるで水たまりのように自分の上にだけ雲があり、あとは青空が広がっている。あー、ヒロノブ見っけー、というタケの声を遠くに聴きながら、ヒロノブは夕立のはじまるところを、誰かが空という硝子に息を吹きかけてできた曇りを、一心に見つめていた。

    今でも夏の、あの糖度の高い空を見るたびに、思い出される出来事である。


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  • 小説

    「次の夏」幻想

    どこまでも続く青と水色を埋め合せるように、何羽かの白い鳥が、印象派のタッチさながらに、水平線を蹴って空へと飛び立っていく。砂の上には、子供心に拵えた小さな塔がひとつ、まだ雨龍は寝息を立てているが、わたしは万にひとつでもそれが崩れないようにそっと、いつのまにか手にしていたあたらしい傘を開いて砂地にそっと差す。塔と海鳥のあいだには、ひとりのあなたがいて、不思議なことにあなたは、陸のほうも海のほうも見つめていない。陸と海に跨るようにわずかに足を開き、左足だけを器用に波にさらしている。わたしはとっくにこれが夢だと気づいているが、どれだけじっと見てみても、あなたの表情が曇り空の向こうに浮かぶ太陽のようにぼんやりとしかわからないので、なおさらこれが「あなたの夢」だと気づく。とはいえ、獏が鏖殺みなごろしにされた世界に足を踏み込んで、夢を見つづけるのは、ひどく剣呑なことだ――そう思いながらも、そのまま、いったいどれだけのあいだそうしていたことだろう?

    ――おかえりなさいな。

    ようやくわたしは、その必要に気づいてあなたに声をかける。「愛するあなたに」と言ってももちろん構わない。あなたはわたしのほうを見ないで、わずかに首を傾げる。ちょうどそれは、海に長い間浸かったあと、耳に忍び込んだ水を吐き出させようとするときの仕草に似ている。

    ――あなたがここに来るにはまだ早い。せめてそう、次の夏、次の夏が来るまでは、焼きたてのパンのような寝床でお眠りなさい。

    わたしがそういうと、あなたは初めてわたしのほうを見た。ぼんやりとしかわからないはずのその表情が、なぜかいかにも苦笑めいてみえたので、わたしは少しどきりとする。

    ――何を言うの。

    あなたの声は、あなたの表情よりはよくこの世界に通った。適切に吹く海風が、あなたの声を適切に、わたしの耳に運んできたのかもしれない。

    ――「次の夏」なんて来ない。それどころか、「ひとつ前の夏」もない。資料も統計も改竄されて、「夏」という季節は喪われてしまったのだから。

    わたしが何かを言う前に、あなたはゆっくりとかぶりを振ると言った。

    ――ねえ、わたしとあなたのいる世界は違うけれども、そこには幸い明確な境界線があって、境界線のうえになら立つことができる。そうでしょ? なら境界線のうえでわたしを抱きしめて。

    あなたはさびしそうにそう言った。仮にさびしそうな声でなくても、わたしはさびしそうにと思っただろう。惻隠そくいんの情を覚えただろう。だから、言われるがままに、わたしはあなたに近寄ると、あなたをきつくきつく抱きしめる。後ろは振り返らない。だっていま、わたしが塩の柱になってしまったなら、あなたはきっと悲しむだろうから。でも、ほんとうは後ろを振り返りたくてたまらない。まるで空(くう)を抱きしめているように、あなたの体温がまるで感じられないことは、わたしにとって哀しいことだから。

    あなたはどう思ってる? あなたは何を感じてる? そう思いながら、わたしはゆっくりあなたから身体を引きはがす。けれども、あなたがどう思っているのかはわからない。なにせあなたの表情は、曇り空の向こうに浮かぶ太陽のようにぼんやりとしかわからないので。

    ――ありがとう。

    そうあなたが言うが早いか、ざぶんという音がして、わたしは少し遅れてあなたが海に帰ったことを知る。ときどき人魚の尾びれを海面に覗かせながら、水平線に向かって逞しく泳いでいくあなたに、わたしは胸の前で小さく手を振った。


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