小説

「次の夏」幻想

どこまでも続く青と水色を埋め合せるように、何羽かの白い鳥が、印象派のタッチさながらに、水平線を蹴って空へと飛び立っていく。砂の上には、子供心に拵えた小さな塔がひとつ、まだ雨龍は寝息を立てているが、わたしは万にひとつでもそれが崩れないようにそっと、いつのまにか手にしていたあたらしい傘を開いて砂地にそっと差す。塔と海鳥のあいだには、ひとりのあなたがいて、不思議なことにあなたは、陸のほうも海のほうも見つめていない。陸と海に跨るようにわずかに足を開き、左足だけを器用に波にさらしている。わたしはとっくにこれが夢だと気づいているが、どれだけじっと見てみても、あなたの表情が曇り空の向こうに浮かぶ太陽のようにぼんやりとしかわからないので、なおさらこれが「あなたの夢」だと気づく。とはいえ、獏が鏖殺みなごろしにされた世界に足を踏み込んで、夢を見つづけるのは、ひどく剣呑なことだ――そう思いながらも、そのまま、いったいどれだけのあいだそうしていたことだろう?

――おかえりなさいな。

ようやくわたしは、その必要に気づいてあなたに声をかける。「愛するあなたに」と言ってももちろん構わない。あなたはわたしのほうを見ないで、わずかに首を傾げる。ちょうどそれは、海に長い間浸かったあと、耳に忍び込んだ水を吐き出させようとするときの仕草に似ている。

――あなたがここに来るにはまだ早い。せめてそう、次の夏、次の夏が来るまでは、焼きたてのパンのような寝床でお眠りなさい。

わたしがそういうと、あなたは初めてわたしのほうを見た。ぼんやりとしかわからないはずのその表情が、なぜかいかにも苦笑めいてみえたので、わたしは少しどきりとする。

――何を言うの。

あなたの声は、あなたの表情よりはよくこの世界に通った。適切に吹く海風が、あなたの声を適切に、わたしの耳に運んできたのかもしれない。

――「次の夏」なんて来ない。それどころか、「ひとつ前の夏」もない。資料も統計も改竄されて、「夏」という季節は喪われてしまったのだから。

わたしが何かを言う前に、あなたはゆっくりとかぶりを振ると言った。

――ねえ、わたしとあなたのいる世界は違うけれども、そこには幸い明確な境界線があって、境界線のうえになら立つことができる。そうでしょ? なら境界線のうえでわたしを抱きしめて。

あなたはさびしそうにそう言った。仮にさびしそうな声でなくても、わたしはさびしそうにと思っただろう。惻隠そくいんの情を覚えただろう。だから、言われるがままに、わたしはあなたに近寄ると、あなたをきつくきつく抱きしめる。後ろは振り返らない。だっていま、わたしが塩の柱になってしまったなら、あなたはきっと悲しむだろうから。でも、ほんとうは後ろを振り返りたくてたまらない。まるで空(くう)を抱きしめているように、あなたの体温がまるで感じられないことは、わたしにとって哀しいことだから。

あなたはどう思ってる? あなたは何を感じてる? そう思いながら、わたしはゆっくりあなたから身体を引きはがす。けれども、あなたがどう思っているのかはわからない。なにせあなたの表情は、曇り空の向こうに浮かぶ太陽のようにぼんやりとしかわからないので。

――ありがとう。

そうあなたが言うが早いか、ざぶんという音がして、わたしは少し遅れてあなたが海に帰ったことを知る。ときどき人魚の尾びれを海面に覗かせながら、水平線に向かって逞しく泳いでいくあなたに、わたしは胸の前で小さく手を振った。


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