論考

遠野遥「破局」論――飲食の位相(1)登場人物をめぐる「飲み物」

あるテクストにおいて、なんらかの飲み物が登場することは決してめずらしいことではない。そうして、その飲み物が、登場人物の個性を表象する役割を担うこともしばしばある。ところで、「破局」においてもまた、水、カフェラテ、アイスコーヒーなどの飲み物が登場する。それらはテクストにおいて、なんらかの機能を担ったり、テクストの運動の補助輪となったりするものだろうか。

まず注目すべきは、陽介と灯が接近したきっかけである。陽介は、漫才の途中、灯が〈口元に手をあて、前屈みになって下を向いてい〉ることに気づき、灯に声をかけ、彼女を〈校舎の外に〉連れ出す。なぜ灯が下を向いていたのか、と言えば、〈カフェラテを飲ん〉で気分が悪くなったからである。

味自体はすごく好きなんですよ。飲み物の中で一番好きなくらいに。

そう灯は言う。〈すごく好き〉なものによって体調にきずをつけられてしまう灯がここでは描かれているが、とはいえ、別の見方をすれば、カフェラテは灯と密接に結びつけられるアイテムということでもあり、陽介と灯の関係のきっかけには、ひとつの飲み物があった、ということが可能となる。

気分が悪くなった灯に、陽介は〈自動販売機で水と温かいお茶〉を買ってくる。灯は〈水をたっぷりと飲み〉、陽介もまた、〈喉が渇いているとわかり、彼女が選ばなかった温かいお茶を飲〉む。詳細については後述することになるが、ここで注目しておきたいのは、水はつめたいものであり、お茶は温かいものである、というその「温度差」である。ふたりは異なる温度のものを飲み、そうして、〈キャンパスを出て、駅の反対側にあるカフェに入〉る。そこでも、ふたりは飲み物をオーダーする。オーダーしたのは陽介が〈アイスコーヒー〉であり、灯は〈温かい紅茶〉である。先ほどと温度が顚倒しているが、温度差があることには変わりない。この日は何事もなく、二人は別れる。

二人が再会するのは、陽介の公務員試験の筆記試験が終わったその日のことである。陽介と灯は、陽介が〈日吉に住んでいた頃、気になってはいたものの、結局一度もいかなかったパスタ屋〉を訪れる。〈いくつかの前菜とパスタ、ピザと肉〉のほかに、二人は飲み物をオーダーする。陽介は〈アイスコーヒー〉を、灯は〈ジンジャーエール〉を、という選択だ。ここで二人がオーダーしているのは種類は違えど同じようにつめたい飲み物であることは、論を俟たない。そうして、しばし陽介は膝の話を灯にしたあと、トイレに行き、〈黒い虫〉を触ってしまうのだが、汚れた手をどうすべきか、そんな迷いを抱えながら席に戻ってきた陽介を待っているものがある。すなわち、〈食後のコーヒー〉である。そうして、〈食後のコーヒー〉は、むろん灯の前にも、おそらく陽介のそれと同じようなカップで、同じような温度で提供されていて、彼女は〈コーヒーカップを両手で持ち、自分のふともものあたりを見つめ〉ながら、自分の部屋に〈チョコレートケーキ〉を〈食べに来ませんか〉と、一人暮らしをしているアパートに陽介を誘うのだ。同じ温度の同じ種類の飲み物が、陽介と灯の距離を縮めるのである。そうして、陽介が、麻衣子という恋人がありながら灯にキスをしてしまう直前に、二人が一本の同じ〈シャンパン〉を飲んだことまで見てみれば、陽介と灯の距離や関係を把握する「小道具」として、「飲み物」がいかに有益な判断材料となるかは、火を見るよりも明らかであろう。

それでは、陽介と麻衣子との関係においてはどうだろうか。

彼女は陽介が自分と別れ、灯と付き合いだしたのち、深夜、陽介の部屋をアポイントメントもなしに訪問している。そのとき、彼女はエクスキューズとして〈お酒〉を持ち出す。

「遅くにごめんね。終電を逃しちゃったみたいなの。お酒を飲んでいたものだから、少しぼんやりしていたみたいで。急で申し訳ないんだけど、泊めてくれないかな」

>ここでの〈お酒〉が果たす機能は、多くのテクストにおけるそれと同様である。すなわち、飲んだものを酩酊させ、正常な判断力を奪うという機能である。

酩酊、ということでは、麻衣子がそうなる以前に、膝が自身の引退ライブ後、著しく酩酊した姿を見せていた。

ふと、校舎から膝が出てくるのが見えた。膝はひとりだった。右手に何かの缶を持っていて、膝のことだからきっと酒だ。歩き方や顔つきからして、今さっき飲み始めたばかりとは到底思えず、ライブが始まる前から飲んでいたに違いない。

それに比べると、麻衣子は、陽介の家にはきちんとたどりついており、また、足取りもしっかりしており(註1)、あまつさえ陽介とセックスに及びさえする。これはあくまで仮説であるが、麻衣子は実際には酩酊をしているふりをしていただけで、ただ陽介に会いたくて、その口実として「酩酊」を利用したのかもしれない。ただし、本考察においては、麻衣子が実際に酩酊していたか否かが藪の中であろうと一向に問題はないと考える。〈お酒〉というものが、ある種の作用をもたらすものという前提が何ら妨げられることなく、テクスト中で機能しているからである。

深夜の突然の訪問の次に、陽介が麻衣子に会うのは〈三田〉の〈カフェテリア〉においてである。この日は陽介の公務員試験の筆記試験の合格発表の日であり、麻衣子は陽介の合格のお祝いにだろう、〈ケーキを好きなだけ買ってあげる〉と〈言〉う。

それを断ってアイスコーヒーを買いに行った。すると、麻衣子も財布を持って私の後を追いかけてきた。(筆者略)麻衣子が私の前に出て、アイスコーヒーとチョコレートケーキを買った。(筆者略)
麻衣子が自分のアイスコーヒーを飲みながら

麻衣子は〈ケーキを好きなだけ買ってあげる〉とは言ったが、「飲み物を好きなだけ買ってあげる」とは言っておらず(少なくともテクストの内部では)、また、これに続く記述を見ても、〈アイスコーヒーとチョコレートケーキを買った。〉という箇所が、「アイスコーヒーを2つとチョコレートケーキを買った。」なのか「アイスコーヒーを1つとチョコレートケーキを買った。」なのかは不分明である。しかし、少なくともここで、麻衣子は陽介が買おうとしていた飲み物を選択し、それを口に運んでいる。むろん大学四年生の男女が〈カフェテリア〉でオーダーするものとして、〈アイスコーヒー〉はもっとも一般的な飲み物のひとつと考えてよいだろう。しかし、麻衣子が席を立ったあとの以下の箇所はどう説明するべきか。

麻衣子が買ってくれたチョコレートケーキをひとくち食べた。麻衣子はアイスコーヒーを半分ほど残していったから、かわりに私がそれを飲み干した。

もう恋人ではない女性の飲み残しのアイスコーヒーを飲む、というのは、陽介のぎちぎちの〈マナー〉観に照らせば、違反的な行為であるように思えなくもない。にもかかわらず、陽介がそのような行為に出ているのは、灯と陽介のあいだの「飲み物」のやりとりを鑑みるに、麻衣子とのあいだに強いつながりを陽介がおぼえているからであろう。平たく言うのなら、陽介の心は、少なくともこのときは麻衣子に傾いていたという推測を、〈アイスコーヒー〉は傍証するものとなるのだ。

ところでこの日、麻衣子は陽介に、幼い頃、自宅に侵入してきた屈強な男から自転車で逃げ回ったときの話をする。その際、彼女は自動販売機を発見するのだが、その発見は以下のように描写される。

体はくたくたで、喉がひどく渇いていた。自動販売機が目に入って、水にしようかお茶にしようか迷ってから、お金を持っていないことに気づいた。すごく心細くて、早くお母さんに会いたかった。

ここでは「飲み物が買えない」ことにより、幼い麻衣子は心細さを深くしており、そのことが、切実に、もっとも近しい他者のひとりであろう母親を志向させている。もし、自動販売機を発見した麻衣子のポケットには小銭が入っていて、自動販売機で飲み物を買って一息つくことができた、というふうに引用箇所がなっていたら、続く場面の色合いは、いま我々の目の前にある「破局」のテクストと、全く異なるものになっていたはずだ(註2)

このように、「破局」において飲み物は、非常に重要な意味合いを担っていることがわかる。そうして、その白眉とも言うべき場面が、北海道を旅行中、雨に濡れた灯のために陽介が〈何か温かい飲み物〉を求めるシーンだ。

灯に何か温かい飲み物を買おうと思い、近くの自動販売機を見に行った。女性は体を冷やしてはいけないと、以前テレビで言っていたのを、思い出したのだ。ところが、自動販売機には冷たい飲み物しか置かれていなかった。少し離れたところにあったもうひとつの自動販売機も確認したけれど、そちらにも温かい飲み物はなかった。今から別の自動販売機やコンビニを探すほどの時間はない。私は灯に飲み物を買ってやれなかったことを、ひどく残念に思った。すると、突然涙があふれ、止まらなくなった。

この場面は、必然的に先ほどの〈三田〉の〈カフェテリア〉での麻衣子と陽介の関係を思い出すことを要請する。たとえば、〈三田〉の〈カフェテリア〉では、陽介は「自分のために」「アイスコーヒーを買おうとして」いた。これに反してこの場面では、「灯のために」「温かい飲み物を買おうとして」いる。行動原理から、飲み物の温度まで、見事なまでに好対照だ。そうして、〈三田〉の〈カフェテリア〉での場面で最重要なのは、陽介の心が麻衣子に傾いている、ということである。たとえここで〈灯のために〉と語り手が言おうと、読者は、その裏にちらつく麻衣子の影から目を逸らすべきではない。

さらに付言するなら、ここには屈強な男の急襲を受け、心細い中で、自動販売機で飲み物すら買うことができずにさらに恐怖を強めていった麻衣子の姿がオーバーラップする。非常に奇妙なことに、灯のことを思っているはずなのに、灯と陽介との間には懸隔が生じていっている。幸福感あふれる北海道旅行であるにもかかわらず、この箇所はいわば、灯と陽介の「破局」を暗示する嚆矢的な箇所となっているのだ。ゆえに、〈突然涙があふれ、止まらなくなった。〉という陽介の様子には、このあと展開される陽介の理路とは異なり、きちんと必然性があったのだ、と見ることが可能である。

さて、「破局」のラスト、灯が陽介に別れを切り出すのは〈灯と初めて会った日に行ったカフェ〉である。ここでも飲み物が登場する。灯は〈冷たいカフェラテ〉を、陽介は〈どのような飲食物も摂取する気になれな〉い、と言いながら、〈アイスコーヒー〉を。むろんこのチョイスはむろん非常に示唆的だ。カフェラテは、灯にとって「好き」だけど「吐き気」を催すものであり、陽介に対する灯のアンビバレントな感情を表象するものだからであることは言うまでもない。一方で、「飲み物」をきっかけにはじまったはずの二人の関係であるにもかかわらず、陽介は、いまや「飲み物」からほとんど断絶している。と同時に、かろうじて選んだ〈アイスコーヒー〉から、陽介が、麻衣子の飲み残しの〈アイスコーヒー〉を飲んだことを、ここでもまた思い起こすべきであろう。

灯は別れを以下のような態度で切り出す。

「あの、聞いてくれますか」
灯はカフェラテのカップを両手で持ち、自分のふともものあたりを見つめていた。

〈カップを両手で持ち、自分のふともものあたりを見つめ〉というのは、灯が陽介を家に誘ったときと寸分たがわぬといってもいい様子である。にもかかわらず、陽介は、灯に自分の部屋に〈チョコレートケーキ〉を〈食べに来ませんか〉と言われたときには、〈すぐに、悪い話ではないだろうと、楽観的に考えた〉陽介が、今回は、〈いい話でないことは、聞かなくてもわかった〉と感じる。そうしてその予感は、まるで陽介が予言者であるかのように的中する。

灯は最後に〈これは、今朝まではよくわからなくて、今やっとはっきりしたことだけど、私、陽介君のこと許せない〉そう言って席を立つ。すでに多すぎるほどの指摘がなされていることであったが、陽介は〈マナー〉を基本的には遵守する人物であった。そんな陽介が、〈マナー〉を破ったことにより、彼の世界は、おとぎ話の勧善懲悪をなぞるように崩壊する。陽介は、歩み去ってゆく灯を止めようと、〈急に立ち上が〉り、その結果、〈カフェラテとアイスコーヒーのカップがテーブルから落ち、地面の上で汚く混ざり合〉う。すなわち、この時点でもう、陽介が愛したふたりの女性は、もはや「飲み物」、否、「恋人」という役割を担うことをやめ、汚く、つまり、灯と麻衣子というおのおのの個性を主張したまま、地面から陽介を〈見下ろして〉いるのだ。

  • (註1)〈明かりをつけていない家の中〉を〈一切ためらうことなく〉〈歩〉くという記述が本文中にはある。なお、同記述については、別項で考察する機会を設けたい。
  • (註2)この次のパラグラフの冒頭は、〈深呼吸をして、長い坂をブレーキをかけずに駆け降りていった〉である。もし麻衣子が〈水〉や〈お茶〉を飲み、体を休めていたら、この一文に包含される不穏さなどは、著しく減じていたことだろう。