論考

遠野遥「破局」論 ――はじめに

遠野遥「破局」は、「文藝」二〇二〇年夏季号に掲載された。文芸誌に掲載されたものとしては、著者のデビュー作「改良」につづく二作目の中編小説である。元ラグビー部(現在は高校ラグビー部のコーチ)で身体を鍛えることが趣味の慶應義塾大学生の語り手・陽介、陽介の同級生でありお笑いをやっている膝、膝の引退ライブで出会いのちに陽介の恋人となる後輩の灯、陽介の幼なじみでもあり(テクストがはじまった当初は)恋人でもあった同級生の麻衣子という四人の人物を軸に展開する青春小説の設定を持ちながら、主にその語りにより、きわめて堅牢な屈託を有するテクストとなっている。タイトルの「破局」とは、①灯と付き合いだしたのち、麻衣子と一夜をともにしたことが露顕し、灯に別れを切り出された陽介が、②自身を置いて店を出ていった灯を追いかける途中で屈強な男を意識不明になる(もしくは死ぬ)ほどの力で殴りつけてしまい、警察に押さえつけられる、その両者への客観的な評価であろう。

本作は、二〇二〇年八月一八日現在における最新の芥川龍之介賞受賞作品(第一六三回/高山羽根子「首里の馬」と同時受賞)でもある。芥川龍之介賞の選評を掲載順にひもといてみると、まず、平野啓一郎の、〈新しい才能に目を瞠らされた〉(註1)という絶賛とも思える評言に出会でくわすことになる。つづく吉田修一は、本作を〈「若い依存症患者たちの物語」〉と評し(註2)、松浦寿輝は〈取り返しのつかないカタストロフというより、若さの無思慮ゆえのちょっとした失態といった程度にしか読めない〉と、あたかも「破局」という表題が〈取り返しのつかないカタストロフ〉を意味しているかのような視座に立ち批判しながらも、〈堂に入〉った〈乾いたハードボイルドな〉文体と陽介の〈保身性〉のあいだの〈ミスマッチ〉や〈黒いユーモア〉、〈的確で魅力的な細部〉などについても指摘している(註3)。小川洋子もまた、〈『破局』に二重丸をつけて臨んだ。(筆者略)正しさへの執着が主人公を破綻させる点において、特異だった。(筆者略)彼は嫌味な男だ。にもかかわらず、見捨てることができない。(筆者略)もしかしたら、恐ろしいほどに普遍的な小説なのかもしれない〉(註4)と好意的に評価し、島田雅彦は〈不安とセット〉になった〈不愉快な読後感〉のあるテクストであるとして、本作について言及している(註5)。山田詠美もまた、〈私にとって一番おもしろかったのが、これ。(筆者略)この作者は、きっと、手練に見えない手練になる。〉(註6)と絶賛、川上弘美は〈表現しようとしていることと、言葉の間に美しい相関関係があ〉ることを指摘し(註7)、奥泉光は〈「破局」の主人公は「欠落」を抱えた人間である。〉と断じながらも、〈かれの「欠落」とは、しかしいったい何なのかと、思考を誘う力が弱い〉(註8)と、さながらトートロジーに陥った作家のような言葉で本作を評価した。最後の堀江敏幸は、作品の細部の要素に具体的に言及し、語り手以外の目線からは「破局」はどういう物語として読めるか、ということを明らかにしてみせたうえで、〈トライを決めない無意識の節度と、見えない楕円球を手放したまま警官の頭越しに見える空の抜け具合に、敵と味方の言葉の呼吸がうまくかみ合っていた。〉(註9)と、極めて詩的かつ美しい表現で選評を結んでいる。

また、同時代の(つまり本テクストに関していうならオンタイムの、ということであるが)書評・感想では、たとえば豊﨑由美が、陽介によって記述される〈〈私〉の内面の薄っぺらさや思考停止ぶり〉と、彼の客観的な評価(〈〈私〉はおもしろみには欠けるものの好青年であることには変わりはない〉)のずれという〈二重構造を生み出す語りのテクニック〉や〈ラストの”破局”にリアリティを与えるために、作者がいかに細部のエピソードに気を配っているか〉などの点に着目し、それらを美点ととらえ、〈『破局』が好き過ぎ〉るというきわめて好意的な評価を与えている(註10)。いっぽうで、清田隆之は、語り手の女性に向けるまなざしが〈女性蔑視的な感覚から生まれるものだ〉と指摘し、〈陽介はむしろ、いわゆる”マジョリティ男性”的な特徴を先鋭化させたようなキャラクターなどではないか〉と考察している(註11)

「破局」について、ある程度分量のある作品論としては、川本直によるもの(註12)がまずある。同論は、登場人物たちの人物像、というよりも性格や気質を的確に描き出し、〈緊密に構築された細部が響き合いつつ収斂していく果てに、劇的な結末が訪れるように仕組まれている〉ことを具体的に指摘したうえで、ブレット・イーストン・エリス「アメリカン・サイコ」やカミュ「異邦人」、また、スウィフトやイーヴリン・ウォーの諸作との近似性を指摘するものだ。また、Kazuは、作中、唐突に祈りたくなった陽介の〈身振りは陽介の「元交際相手」である麻衣子の回想において、小学生だった彼女が一人で留守番をしている家に侵入し、彼女のベッドで仰向けに寝て「胸の上で両手の指をしっかりと組み合わせていた」男の姿として反復される〉点、および〈作中、陽介はチワワはカラスといった動物から道ですれ違った小さい女の子に至るまで、さまざまな他人に顔をじっと見られる。〉という点などに鋭く着目し、そこから、見られることに意識的な陽介像を炙り出し、男性と女性の非対称性にまで、きわめて的確な手つきで論を進めていく(註13)。また、しみは陽介の二股の因が〈向こうからの「押し」〉という共通項を持っていることを示し、〈じつは陽介は加害者などではなく、被害者なのではないか〉という視点を導入し、〈日々人間と戦いながら、ゾンビとして暮らしている〉陽介像を抽出した(註14)

本論考では、これらの同時代の評言からの示唆を受けつつ、たとえばまなざし、たとえば飲料、たとえば父性と母性などをキイ・ワードもしくはキイ・アイテムとして「破局」を読み解いていくことを目的とする。

なお、本文の引用については、『破局』(二〇二〇年七月、河出書房新社)を底本とした、二〇二〇年六月(奥付ママ)発行の河出書房新社刊のKindle電子書籍版に拠った。引用・参考文献を含め、ルビは適宜省略した。

  • (註1)平野啓一郎「他者との「ディスタンス」」(「文藝春秋」二〇二〇年九月号)
  • (註2)吉田修一「選評」(「文藝春秋」二〇二〇年九月号)。なお、この評言における「依存症」は、いささか軽率な用いられ方をされていると指摘せざるをえない。
  • (註3)松浦寿輝「奇抜なユーモアに満ちた思考実験」(「文藝春秋」二〇二〇年九月号)
  • (註4)小川洋子「普遍的な小説」(「文藝春秋」二〇二〇年九月号)
  • (註5)島田雅彦「全員孤独」(「文藝春秋」二〇二〇年九月号)
  • (註6)山田詠美「「選評」」(「文藝春秋」二〇二〇年九月号)
  • (註7)川上弘美「魔法」(「文藝春秋」二〇二〇年九月号)
  • (註8)奥泉光「いつもどおり」(「文藝春秋」二〇二〇年九月号)
  • (註9)堀江敏幸「空の抜け具合」(「文藝春秋」二〇二〇年九月号)
  • (註10)豊﨑由美「『破局』遠野遥は、文芸界のニュースターだ! 二重構造を生み出す語りを書評家・豊﨑由美が熱烈考察」(「QJWeb」、二〇二〇年八月六日、二〇二〇年八月一七日閲覧)
  • (註11)清田隆之「ハイスペ男子の奇妙な自分語りが、男性性のメカニズムを浮き彫りにする芥川賞受賞『破局』」(「QJWeb」、二〇二〇年八月七日、二〇二〇年八月一八日閲覧)
  • (註12)川本直「我々は空虚なゾンビであり、空虚なゾンビは我々である――遠野遥論」(「文學界」二〇二〇年九月号)
  • (註13)Kazu「性的ゾンビ 遠野遥『破局』について」(「いえばよかった日記」、二〇二〇年七月九日、二〇二〇年八月一八日閲覧)
  • (註14)しみ「ゾンビ、ごめん。」(「note」、二〇二〇年七月一三日、二〇二〇年八月一八日閲覧)