論考

遠野遥「破局」論――「破局」における擬人法とその展開

「破局」は、すでに三好愛や佐川恭一らが指摘している(註1)(註2)ように、非常に特異な擬人法が登場するテクストである。三好と佐川が指摘している個所を、前後も含めて少し引用してみよう。

①今日まで私の性器を守っていたこの陰毛は、抜け落ちた今、ただのゴミになろうとしていた。文句も言わずに仕事をしてきたのにあんまりな仕打ちだと思い、私はこの陰毛をなんとかしてやりたくなった。何か使い道はないだろうか。たとえば小銭入れに忍ばせておいたらこの先一生女に困らないとか、そういう効果はないだろうか。あってほしかった。しかし小銭に陰毛が混じっているのはどう考えても不快だった。
私は彼を、床に落とした。床に落としてしまうと、彼はもうどこにいるのかわからなくなった。
②ひとつだけやめて欲しいのは、セックスの最中、私の性器とおしゃべりをすることだ。性器に話しかけるときは敬語を使わないから、私に言っているのではないとすぐにわかる。(筆者略)話しかけられているのは私の性器であって私ではないから、当然私は返事をしない。性器も性器だから返事をしないが、灯は構わずひとりで会話を続ける。(筆者略)なんだか仲間外れにされているようで面白くなかった。

ところで、擬人法とは、そもそもどのような技法であろうか。秦恭子は、S・ミズンや中沢新一の論を踏まえ、〈「人を動植物として」あるいは「動植物を人として」重ね合わせて思考する擬人法は,古来より,自然界との調和的な生活を築いていくための「共感をともなった謙虚な知性」や生命倫理を人間社会の中に生み出してきた。〉(註3)とまとめている。〈陰毛〉の擬人化の前半は、まさにこの秦の〈「共感をともなった謙虚な知性」〉なる記述をなぞっているように、「〈私の性器〉が〈守〉られていたという〈謙虚〉さ」と、「〈ゴミになろうとしてい〉るのを〈あんまりな仕打ちだと思〉う〈共感〉」に充ち満ちている。しかしながら、その共感は持続しない。陽介は〈彼〉を〈床に落とし〉〈どこにいるのかわからなく〉してしまうからである。

いっぽうで、上記二例の擬人法は、〈「人を動植物として」〉扱うものでも〈「動植物を人として」〉扱うものではない。人の肉体の一部(それも、脳や心臓ではない一部)が、あたかも「人格」とされるような何かを有しているかのように描写する、というものだ。

このような描写をしているテクストとして想起されるのは、たとえば、ヤプーズの「12階の一番奥」の以下のような歌詞である。

指や唇とかは嘘を見抜くのが下手 羨ましいくらいに信じる(註4)

「12階の一番奥」においても、人の肉体の一部(それも、脳や心臓ではない一部)が、あたかも「人格」とされるような何かを有しているかのように描写されており、更に言うのなら、この両者にはそれ以上の共通点がある。いったいそれはなにか。ヒントとなるのは、佐川恭一の、以下のような指摘であろう。

「性器も性器だから返事をしないが」なんて並の人間が二億年考えても書けなくないですか?ここは普通なら「当然私は返事をしない。それでも灯は構わず~」って続けると思うんですよね。(註5)

この指摘が非常に示唆に富んでいるのは、〈性器だから返事をしない〉という部分が、〈私は返事をしない〉と〈普通なら〉言い換え可能であることに言及している点である。「12階の一番奥」においてもこれは同様でありそうに見える。

ところで、「12階の一番奥」において〈嘘〉とはどのような機能を担うものであろうか。この曲の冒頭のフレーズは、〈嘘だと嘘だと 言ってられれば 安心してられる〉であり、それと呼応するように〈信じない〉という言葉が何度も用いられている。つまり、「12階の一番奥」の語り手にとって〈嘘〉でないこと、〈信じ〉るに値するような善きものの存在を、語り手は、頑是ないまでに認めようとしていないのだ。「愛」と一般的に呼ばれるものについても〈信じない〉ゆえに語り手は、たとえば「私は嘘を見抜くのが下手。指や唇に翻弄される」などと言うことができない。〈指や唇〉が、第三者を――おそらくは恋人を〈信じ〉るなかにあっても、語り手はそれを〈信じない〉と言いつづける、というのが、〈指や唇とかは嘘を見抜くのが下手 羨ましいくらいに信じる〉という部分の内実だ。ここにあるのは、語り手の意識と肉体的な認知に基づく感覚との間のずれである。結果として、「思考する語り手」と「感覚する語り手」とも言うべき、ふたりのまったく別の「人格」を有する語り手のふたりが、ここには存在することになる。

これを踏まえたうえで、「破局」の性器の比喩はどうか。引用のとおり、陽介は灯と自身の性器の会話を〈仲間外れにされているようで面白くなかった〉と記述している。陽介にもまた、自分の〈性器〉を、完全に自分とは切り離された他者のように見る目線があるのだ、ということができる。そうして、テクストの後半部、灯に別れを切り出される朝の、〈灯は(筆者略)私にキスをした。それから私の性器にもキスをし、少し口に含んだ後で、何か声をかけた。彼らだけの内緒話のようで、私には内容が聞き取れなかった。〉という箇所を見ると、陽介の中で〈性器〉を他人と感じる比重は、益々増えているように思われる。〈性器も性器だから返事をしない〉の場面では、〈性器に話しかけるときは敬語を使わない〉と陽介は言っていた。すなわち、話の内容を聞き取ることができていたと考えられる。ところが、灯に別れを切り出される直前に灯が〈性器に声をかけ〉る場面では、〈内緒話のようで、私には内容が聞き取れなかった。〉と言っているのである(註6)。おなじ〈性器〉を他者のように扱っている場面でも、その距離感において、両者には大きな差異があると言ってよい。これが、自身の中にある他者性が、つまり自身に理解不可能な部分が漸増していることを示すのは論を俟たない。

もう一点、「破局」において、陽介の〈性器〉を擬人化しているのは陽介だけだろうか。むろんそうではない。〈私の性器とおしゃべり〉をし、〈私は返事をしな〉くても、〈構わずひとりで会話を続ける〉灯もまた、陽介と同様、陽介の〈性器〉を擬人化し、陽介とは異なる「他者」として会話している、と言ってよい。そうしてよくよく考えてみるとこれは、灯が、自身の〈性欲〉について葛藤する描写と接続するように思われる。

正直に言って、私は相手が陽介君じゃなくてもいいと考えるようになっていたんです。大学とか電車で筋肉質な男の人を見ると、あ、抱いて欲しい、って自然に考えるようになっていたんです。でもそのたびに私には陽介君がいるからって、そんなの絶対にいけないし、心の中で思うだけでも陽介君に対する裏切りになるって思ってたんです。だから私はいつもポケットに安全ピンを入れておいて、そういうことを考えそうになると、それを自分の指先に刺してたんです。

自身の〈性欲〉と、その〈性欲〉を許しがたいと考える灯が同時に存在していることが述べられており、いわば、「自身の中にある他者としての性」を灯が有していることが、ここでは明らかになる。また、この直前には、〈北海道に行ったとき、相談しましたよね。そういうことをしたいって気持ちが日に日に強くなってるって。でもあの日、本当に言いたかったことは言えなかったんです。〉と灯が陽介に告げる場面がある。陽介の性器との会話を踏まえると、その台詞は、灯が「自身」と「自身の中にある他者としての性」と〈内緒話〉をしていたのだ、と換言することが可能となるだろう。このように、「破局」における擬人法のあり方は、登場人物が抱える自身のなかにまぎれもなくあるにもかかわらず自身には制御不可能な何かを描出する、いわば「伏線」としても展開し、その伏線がもたらす展開は、故きを温ねる言い方をするのなら登場人物に「奥行き」を、そうではない言い方をするのなら、「人間というものの本質にある底の知れない不気味さ」を、テクスト内において実現する、たとえばひとつの柱となっているのだ、ということは間違いない。


  • (註1)「Twitter」(二〇二〇年八月一四日、二〇二〇年八月二一日閲覧)
  • (註2)「Twitter」(二〇二〇年七月二三日、二〇二〇年八月二一日閲覧)
  • (註3)秦恭子「比喩の授業による環境教育の可能性 ―「真の隠喩」としての擬人法に着目して―」(「日本教育学会誌」二〇一六年三月)
  • (註4)ヤプーズ「12階の一番奥」(『Dadada ism』二〇〇二年、戸川純作詞、ライオン・メリイ作曲)
  • (註5)「Twitter」(二〇二〇年七月二三日、二〇二〇年八月二一日閲覧)
  • (註6)なお、この場面の直前、激しいセックスの末、陽介が灯に求められても、ついには性器を勃起させることができなくなっていたことも思い起こすべきだろう。陽介の意志を裏切る存在、つまり、陽介の意志の容喙しえない存在として、〈性器〉が描かれているのだ。