論考

遠野遥「破局」論――ゾンビたち、もしくは〈温かい手〉という福音

「破局」の語り手である陽介は、精神面ではともかく、身体面では、他者に対してある種の鋭敏さを見せる人物である。たとえば、自身が殴りつけた〈大学生風の男〉に対する以下の描写を見れば、それは一目瞭然であると言ってよい。

肩幅の広さや胸板の厚さ、首やふとももの太さには目を見張るものがあった。それでいて脂肪はほとんどついていない。おそらく、とても実用的な筋肉だ。(筆者略)日に焼けた逞しい上腕二頭筋がとてもよく映えた。

そんな陽介にとって、他者というのは、性欲などの主観を排したとき、どのように身体的に把握されているだろうか。ここでは、体温を軸にして見ていきたい。

丁寧にその記述を拾っていくと、「破局」においては、陽介が誰かの体温を感じる描写が非常に多いことに気づかされる。陽介がはじめて誰かの体温を感じるのは、日課のジョギングの途中で〈道を聞〉いてきた〈外国人の男〉に対してだ。

男は日本語で礼を言い、私のもとを去った。私は男の左腕に触れながら喋っていたが、汗をかいていたから、控えたほうがよかった。私の体が熱くなっていたせいか、男の腕は冷たく感じられた。

この文章の直後、パラグラフが変わり、語り手は〈部屋に帰り〉、膝からのメールに〈わからないとだけ〉返信する。すなわち、テクストのうえでは、〈外国人の男〉が去ったあと、いちばん最後まで残る余韻が〈男の腕〉の〈冷た〉さとなる。

ところで、そもそも陽介は、なぜ〈外国人の男〉の〈左腕に触れながら喋っていた〉のだろうか。たとえば、〈外国人の男〉が盲目であり、安心させるためにその〈左腕に触れながら喋っていた〉という可能性はないとは言えない。しかし、テクスト内部に決定的な根拠を有するような記述は、管見では存在しない。そもそもこの〈外国人の男〉の登場はいささか唐突であり、一見テクスト内部の他の記述と、なんのネットワークも形成しないように思えなくもない。

これを考えるにあたっては、その他の体温の記述を拾っていく必要があるだろう。「破局」のテクスト中に、「冷」という文字は十三回出てくる。そのうち、接触の際に誰かが感じる「冷」は、以下の四例となった。

①麻衣子の手は冷たく、私は思わず身を震わせた。
②滑り台が熱を奪ったのか、灯の手は冷たかった。
③灯の手はまだ冷えていた。でもすぐに温かくなる。
④私は灯の右手を引いて椅子から立たせ、彼女を正面から抱き締めた。体が冷えているのがわかった。

次に、「熱」について調査した。接触の際の「熱」は、以下の二例である。

①勃起した男性器を押しつけられるのは、いったいどんな気分か。(筆者略)熱いか。硬いか。
②灯の手にはやけに熱がないけれど、それは私の体温が高いせいかもしれない。

最後に、「温」についての調査の結果、接触の際の「温」は、以下の一例と、後述する一例の、合計二例であることが判明した。

①つい先程まで私の一部だっただけあって、精液は温かかった。

ここまで引用してみれば、事態は明白であろう。つまり、つねに「破局」において、陽介は、自分をつねに〈熱〉いものとして、そうして、こちらがより重要であるのだが、他者をつねに〈冷た〉いものとして感受しているのだ。七例の出現箇所がすべてそうなっていることから、これは恐らく作者である遠野の意図した結果であろうと思われ、小谷野敦の〈たぶん設定がずさん〉(註1)という読解が、いかに〈ずさん〉なものかを傍証するものでもある。

さて、陽介が「冷たさ」を感じるのは、灯と麻衣子、つまり恋人の女性ふたりだけだろうか。ここで、先程の〈外国人の男性〉が再度検討の対象に入る。彼は、一瞬袖擦りあっただけの「赤の他人」の「外国人」の「男性」であり、つまり、性差なく、また国籍も関係性の深さも問わず、テクスト中において、陽介は他者の体温を「冷たい」と感じていた、ということが、〈外国人の男〉の〈腕〉の〈冷た〉さによって可能になるのである。

もちろん、筋肉には熱産生があり、〈ヒトが1日に産生する熱量は、筋肉運動などの活動状態によって大きく変化する〉(註2)ものである以上、陽介の筋肉質な肉体が人より熱いのは当然である。しかしながら、そのことと、彼が他者の体温を「冷たい」と感受してしまい、あまつさえそれを記述してしまう、ということのあいだには、まったく別の意味が生じてくるだけの懸隔があるように思われる。具体的に言うのなら、陽介は、他者との温度差に敏感であった、ということが、散見される「冷たい」という言葉から明らかになるのである

ところで、作中には「身体的に冷たい」人間を表現する言辞が出てくる。言わずと知れた「ゾンビ」である。それを踏まえ、他人の体温を「冷たい」としか感じることのできない陽介の立場に立てば、陽介にとって他人は、ある意味においては「ゾンビめいた」存在であったのだ、ということが、陽介がどのくらい自覚していたのかはともかくとして、可能となってくるだろう。その一方で、陽介は、ラグビー部の後輩に〈俺は現役だった時、実際に自分をゾンビだと思い込むようにしてい〉た、と言う。しかし、〈思い込むようにしてい〉た、ということは、陽介は、〈思い込むようにし〉なければゾンビになれなかった、ということになる。これは、何度か出てくる自身の相対的な体温の高さについての描写と相俟って、陽介が「ゾンビめいた」存在とは実は一線を画した存在であること、すなわち「人間」であると自認している存在であることを意味しうる。川本直の〈欲望と道徳に反射的に従うだけの陽介は正にゾンビだ〉(註3)という指摘は、客観的な陽介の評価を、ある意味代表するものであろう。これは、陽介の主観と客観の齟齬とも考えられるが、〈現役だった時〉の陽介と今現在の陽介のあいだの変化とも考えられる。たとえば、陽介が大学の部活動としてラグビーをしている描写がない理由は推測することしかできないが、ファストフード店で偶然聞こえてきた、ラグビー部の後輩と思しき人物の、〈「大学じゃ通用しないんだろ。(筆者略)だからいまだにここに来てイキッてんの」〉という台詞は、その後の陽介の混乱ぶりを見るにつけ、当を得ていたのではないか。そうして、そのときの陽介の混乱ぶりは、陰口を叩かれていたことを踏まえても、尋常ではないほどの、と言っていいだろう。その混乱を、特に裏付けているのが以下の場面だ。

早歩きでまっすぐ駅へ向かい、改札を通り抜けた。エスカレーターの右側を一段飛ばしで上り、閉まりゆくドアを肩でこじ開けて電車に乗った。

〈マナー〉を遵守する性分であるはずの陽介が、ここでは、〈エスカレーター〉を〈一段飛ばしで上り〉、発車間際の電車に無理やり体をねじこみ乗り込む、という、〈マナー〉に照らせば明確な違反行為を行っている。そうして、自身の〈マナー〉違反を咎めるような〈舌打ち〉をした人物に、苛立ちを隠さない。陽介は、他人の〈マナー〉違反については、たとえ内心でどう思っていようとも、実はそこまで不寛容であるような「そぶり」を見せることはない。たとえば、未成年であるにもかかわらず〈シャンパン〉を口にした灯に対しては、〈私はそれについて何かを言おうとして、途中で何が言いたいのかわからなくなってやめた。〉とあるし、また、深夜突然の来訪をした麻衣子を結局は自身の部屋に通してしまう場面なども、その一例としてあげられるだろう。にもかかわらず、ここでは、自身の〈マナー〉違反を棚上げして、〈ドアに手をついて〉男の〈逃げ場をなく〉すような、強引な行為に打って出る。平生の陽介のふるまいとは、大きな違いがあるとみていいだろう。

本テクストにおいてゾンビは、何も口述することのない存在である。ゆえに、これはあくまで仮定ではあるが、「人間」である陽介は、「ゾンビめいた」存在であるはずの後輩たちの、「陰口」という、「ゾンビめいた」存在らしからぬふるまいに、あるいは、「ゾンビめいた」存在の「陰口」をストレートに読解できる自身に過剰に動揺したのではないか。だからこそ彼は、自身を「ゾンビめいた」存在であると認めないために、彼らからじゅうぶんな身体的な距離を置いたうえで〈先程食い損ねたのと同じファストフード店〉(註4)に入り、〈チーズバーガーと魚のバーガー、それからチキン、珍しいパイ〉を、大量の食べ物を食らうのだ、と考えられる。ゾンビはヒト以外のものを食べないが、人間は、ハンバーガーやチキン、そうして珍しいパイを食べるからである。

さて、物語の終盤、陽介とおなじような体格の男性が、陽介に殴られ意識不明におちいる場面がある。もし、しみの述べるように、単に意識不明におちいっただけではなく、〈(恐らく)男は絶命した〉(註5)のならば、そうしてその可能性はかなり高そうにも思えるが、「死」は「冷たくなる」と言い換えが可能なのであるから、ここにも「冷たさ」が、それも、意味的には最上級の「冷たさ」が生じる。陽介がラグビー部の後輩に対して投げた言葉としては、このようなものもある。

ゾンビは痛みや疲れなんて感じない。死んでるわけだから、何もわからない。

しかし、無論地上に活動している人間は「生きてる」はずであり、陽介が感じないだけで、否、感じることができないだけで、彼らにも体温がある。だからこそ、「死」は「冷たくなる」(=もともとは「温かかった」)と表現されるのである。そうして、陽介はそのことをきちんと自覚する。〈晴れた日の空に似た色のワンピース〉を見たのち、〈空をこんなふうに見上げるのは久しぶりで、私はこれを、もっと早く見るべきだったと知った〉とあるのは、表面をなぞるような目線が、事物の本質に触れる目線へと変化したことを示すもの、と考えてよいだろう。そうして、最後、陽介の〈体〉は〈優しく押さえ〉られる。自身を〈優しく押さえてい〉る手について、陽介はこう表現する。

彼の手はとても温かく、湯につかっているかのように、心地よかった。

陽介の身体的な価値基準は、最後の最後にさりげなく、しかし見事なまでにうつくしく顚倒し、彼は、自身の周囲にいるのが「ゾンビ」ではなく「人間」であることを、心ではなく体で、はじめて理解することができたのだ。


  • (註1)小谷野敦「ハクチ感が漂う」https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2JFD05MVIJUYG/ref=cm_cr_getr_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=B08BNJJC5L(二〇二〇年七月三〇日、二〇二〇年八月二二日閲覧)。なお、陽介の実家が〈東京にありそう〉なことを前提に小谷野の評は進められていき、陽介が一人暮らしをしていることで〈たぶん設定がずさん〉という結論に落ち着いているが、現在陽介の実家が〈東京にあ〉ることを示す文言は、テクスト中には一切見られず(陽介は母子家庭である可能性が高く、彼の大学進学を機に、母親は自身の実家に戻り、陽介ひとりのみ東京に残っている、などというパターンは十分に〈ありそう〉である)、〈ありそう〉〈たぶん〉などという留保つきで進めていく、あたかも「多分といえば嘘をつかなくてすむ」という格言に似た論評の手つきを抜きにしても、小谷野の評言が〈ずさん〉であるという謗りは、残念ながら免れないだろう。
  • (註2)「体温」https://home.hiroshima-u.ac.jp/mededu/pdf/download/体温.pdf(二〇二〇年八月二一日閲覧)
  • (註3)川本直「我々は空虚なゾンビであり、空虚なゾンビは我々である――遠野遥論」(「文學界」二〇二〇年九月号)
  • (註4)「破局」には、灯が〈ファーストキッチンでポテトを食べ〉る場面がある。しかしながら、陽介が入ったファストフード店は、ファーストキッチンなのかマクドナルドなのかモスバーガーなのか、具体的には書かれていない。しかし、このことにより、〈先程食い損ねたのと同じファストフード店〉という表現が可能となってくる。
  • (註5)しみ「ゾンビ、ごめん。」(「note」https://note.com/southern6344/n/ne76018179a9b、二〇二〇年七月一三日、二〇二〇年八月二二日閲覧)