論考

遠野遥「破局」論――「父親的なるもの」を希求するテクストとしての「破局」

陽介は作中において少なくとも二度、子供の注視を受ける。一度目は、〈泣きながら「本が、本が」と叫んでい〉る子供の、二度目は、〈タクシー〉に轢かれそうになった子供の注視である。

両者のシチュエーションを整理すると、子供の注視を集めている以外に、もうひとつの通底する特徴があることがすぐに了解されることだろう。すなわち、子供はひとりでいたわけではなく、「父親とおぼしき人物」とともにいて、「スカートを履いた子供」と描写されている、ということだ。ここに母親は出てこず、また、子供についても「スカートを履いた女の子」とは記述されない。後者については、「破局」の作者である遠野がデビュー作の「改良」で「女性の格好をする男性」を描いたことを踏まえると贅言を費やすまでもないように思われるが、母親の不在、という点についてはいささか着目の余地があると思われる。理由としては、麻衣子が幼いころ陽介によく似た相貌を持つ侵入者と出会したのも、母親の不在時だったからである。そうしてまた、陽介が自身の父親について言及する箇所はあっても、母親について言及する箇所はない。詳細な考察は別の機会に譲るとしても、「母の不在」は、「破局」を特徴づける要素であると言っていいのかもしれない。

さて、この父親と子供であるが、その様子は外見的にも、そうしておそらく気質的にもあまり似ていないといってよい。しかし、両者のあいだに少なくともひとつは共通項をあげることができる。何か、といえば、「父親と子供が歩くときは手を繫いでいる」という共通点である。

①子供は黒いスカートを穿き、男と手を繫いでいた。
②子供はその間、意見を求めるように私の顔をじっと見ていたが、やがて男に手を引かれて再び歩き出した。

共通点が少ないぶん、「破局」における「父親的なるもの」「子供的なるもの」の関係は、この「子供を誘導するために手を繫ぐ」という場面に、いわば凝縮していると言ってよいだろう。

ところで、これによく似た動作が出てくる箇所がある。麻衣子が陽介の元を深夜訪れる場面である。

麻衣子が私の手を取り、廊下の奥へ引っ張っていった。灯をつけていない家の中は、ほぼ真っ暗と言ってよかった。でも麻衣子は一切ためらうことなく廊下を歩いた。

特に先の引用②と比較すると、子供の意志を振り切るようにその手をつかみ陽介にとってどこへともしれないところへつれていく父親らしき人物と、陽介の意志など我関せずというようにその手を取り真っ暗な場所を突き進んでいく麻衣子のあいだには奇妙なほどの類似が見受けられると言ってよい。

これを踏まえると、ひとつの仮説を簡単に立てることができるだろう。すなわち、麻衣子がこの場面では「父親的なるもの」として、そうして陽介が「子供的なるもの」として造形されているのではないか、という仮説だ。そうして、この仮説に基づくと、陽介がさしたる抵抗もせず、麻衣子と性行為に及んだ理由も簡単に説明がつく。陽介は、父親の〈思い出はほとんどない〉と言いながら、〈女性には優しくしろ、と口癖のように言っていたのだけはよく覚えてい〉て、そうしてその理由もわからないままそれを遵守しつづけている。陽介は、彼が知っている唯一といっていい「父親的なるもの」に、おどろくほどに従順であるのだ。つまり、この場面で麻衣子がいかにも父親的なふるまいに及んだから、陽介は抵抗の意志を失ったのだ、というふうな脈絡を立てることが可能になってくるのである。

また、麻衣子が陽介の〈胸に顔をうずめた〉とき、陽介の〈心臓に向けて語りかけるように喋った〉ことも、陽介が麻衣子に絆された一因としては考慮にいれるべきである。陽介は灯が自身の〈性器とおしゃべりをすること〉に対し、〈仲間外れにされているよう〉な気持ちを覚えている。これに対し、〈心臓に向けて語りかけるように〉とは、まさに陽介を陽介たらしめる部分について語りかけているのと同義だからである。

さらにもう一点、〈麻衣子が私の手を取り、廊下の奥へ引っ張ってい〉く直前の、〈陽介くん、汗のにおいがするね〉という台詞についても言及しておきたい。陽介は、自身のにおいに敏感であり、佐々木の家につくと真っ先にシャワーを借り、〈体が臭うと周囲の人間にも迷惑がかかる〉と言っている。そんな陽介が、かつての恋人に〈汗のにおい〉を指摘され、はたしてなんとも思わなかったということがあるだろうか。作中に具体的な文言は出てこないためあくまで仮説にとどまるが、この言葉によって陽介は動揺し、幼い子供のように、麻衣子に〈廊下の奥へ引っ張ってい〉かれるような状況が現出した、と考えることもできる。

さて、次に、麻衣子が過去、暴漢に追い回されたときのことを思い出しながら語っているときの、こんな記述を見てみよう。

どういうわけか私の中には、お母さんが帰ってくるまでに家に戻らなきゃっていう、強い気持ちがあった。帰ってきて私がいなかったら、たぶんものすごく心配するだろうと思って。

この心の動きは幾分不思議ではある。なぜ、というに、「お母さんが男と鉢合わせする」ということの剣呑さではなく、「私がいなかったらお母さんが心配する」ということについて、麻衣子の意識は占められているからである。これはただ単に、麻衣子がいかにも親から愛された子供であったことが拝察できる描写にすぎないのだろうか。

ところが、これと似たような感情に、陽介がとらわれている箇所がある。男を殴って意識不明にしてしまい、それを見ていた〈晴れた日の空に似た色のワンピースを着ていた〉女を追いかけていたものの、〈もと来た道を、引き返そうと思っ〉た時である。その理由を、陽介はこう語る。

私が動いてしまったら、灯が戻ってきたときに、私を見つけられないからだ。

この感情は、麻衣子が幼い子供のころに感じたものと同質であると言っていい。すなわち陽介は、この場面できわめて「子供的なるもの」として造形されているのだ。

男が落とした球が転がっていることに気づき、反射的にそれを拾い上げた。そして、胸の前で強く抱き締めた。本当なら灯を抱き締めたいが、灯は今ここにいないから、そのかわりだった。(筆者略)球は私の力をやわらかく受け止め、抱いているのは私であるのに、私は父親に抱かれているような安心を受け取った。

陽介が、殴り倒した男が持っていた巨大なバッグからこぼれおちた球を拾い上げる部分である。ここで陽介ははっきりと、「母親に抱かれている」ではなく〈父親に抱かれている〉と書いている。ほんとうに切羽詰まったときに自分を助けてくれる存在として、陽介は、母親ではなく幼いころに失った父親を思い描いているのだ。父親的なるもの、をよく知らないぶん、父親的なるものが理想化されすぎている、と指摘するのはたやすい。しかし、身体的には「立派な男」であると言っていいだろう陽介が、「父親的なるもの」を体感としてよく知らないゆえに、「父親的なるもの」に縛られ、それを希求しつづけている、という構図は、イノセントであるぶん、かえって「破局」の核となる部分であるかもしれないのだ。