小説

短死系

「死は汚い。」と文月は言った。ここでの『汚い』は『ずるい』の意味ではなく、文字通り『汚れた』の意味であることを付言した文月は、しかしその根拠まで明言することはなかった。無神論者の哲学者が言うくらいなのだから、その『汚れ』は、おそらく塩を撒くこととの間には懸隔があったろうに、ぼくはあの日、その『秘密』を知ることはできなかった。

あの日、曇り空はどんな天使の喇叭をかき鳴らしても割ることが出来なさそうなほど低く暗く垂れこめていて、なのに文月の顔は、どこから光を集めて来たのか、圧倒的な眩さに満ちていた。ぼくは思わず眉をひそめそうになった。文月の発言を不謹慎と思っているのだと誤解をされかねないことの心外さから、結局そうはしなかったけれども。

もしおれがお前より先に死んだら一篇の詩を書いてほしい。そう文月は膝を払いながら言った。だから、「死は汚い。」と言った時、文月は、膝を土についていたのだと思う。なのにぼくは、ぼくたちがどこでその会話をしていたのだか、不思議なことだろうか、どうしても思い出せない。「詩?」と尋ねかえす時に、自分の口元が慄くように歪み、少し甘えたような媚を含んだ笑いの調子を帯びたこと、その媚に応じるように、文月が真率な調子を崩した――崩してしまったという事実には、今となっては後悔の念が湧き起こる。「おう、詩だよ、お前なら書けるだろ。」「書けねえよ。」いよいよぼくは笑って、文月も答えるように笑って、二人分の笑いの渦は大きく、先程彼が発した毅然とした命題も呑み込み、ぐずぐずに壊れて溶けてしまった。愛はいつだって地球を救うとは思っていなくても、笑いはいつだって二人を助けると思っていた浅はかさは、若さゆえのものと片付けてしまうには苦々しいものだ。

……あれから何年経ったのか。正確に指折り数えるべきなのか、それとももっとぼんやりとしているべきなのか。詳細は与り知らぬけれども、文月は揉め事を起こして事実上学界から追放されたらしい。ぼくは運よく手掛けた小説が純文学の登竜門と呼ばれる賞を受け、そのまま筆で糊口を凌いでいる。行きがかり上、お互いに、罵詈讒謗を吐くのは知り合った頃よりだいぶ上手くなっていた。一頻り人を腐しあったあと、ふとお互いに見つめ合い、見透かし合い、今度は上手くなっていない方の言葉遣いを、意味が通じる程度になんとか組み合わせて、二人で暮らしはじめた、そんな矢先のことだった。

「おう、詩だよ、お前なら書けるだろ。」「書けるよ。」ぼくは小さくつぶやくと、サインペンを鞄から取り出して、破りとった手帳に書きつける。

『文月大地 享年三五』

これほど端的で、これほど美しく、これほど胸を打つ詩はないだろう。ぼくは文月の反応を伺おうと、そっと顔を覆っている白い布をめくってみる。「死は汚い。」「どこがだよ。」深い悲しみの中で、ぼくは砂を詰められた花瓶のように苦笑した。文月の顔は、どこから光を集めて来たのか、圧倒的な眩さに満ちていた。