論考

ちっぽけな生の輝き――ZARD「心を開いて」論

「心を開いて」は、〈私はあなたが想ってる様な人ではないかもしれない〉というフレーズではじまる。ここでまず描かれる情況は、換言するのなら「好きな相手が自分のことを理解していないように感じる」ということだ。けれども、この歌の〈私〉は、そのことに不平を漏らしたり、あるいは悲しんだりなどせずに、〈でも不思議なんだけどあなたの声を聞いてるととても優しい気持ちになるのよ〉と、「自分が理解されていない」ことを踏まえたうえで、〈あなた〉に対してある種の慰めを見出していることがわかる。つまり、この歌で描かれるのは、相互理解の大切さ、ということでは必ずしもない。〈言葉はないけどきっとあなたも同じ気持ちでいるよね〉というフレーズを見ると、互いに歩み寄ることの大切さですらないのかもしれない。もし「心を開いて」の歌詞に主題を見出すのなら、たとえばそれは、「人は他者をあるがままに肯定し、最大限の尊重を払うべき存在として認めることもできるのだ」などという具合になるだろう。

「心を開いて」は、〈たまらなく好き〉とか〈どんなときもあなたの胸に迷わず飛び込んでゆくわ〉などのフレーズを見ると、まぎれもなくラブソングである。けれども一方で、「愛」というものについて非常に慎重な姿勢を見せている楽曲でもある。それは、〈忘れようとすればする程好きになる それが誤解や錯覚でも…〉というフレーズに、如実に表れている。〈好き〉という気持ちをあるいは〈誤解や錯覚〉かもしれないととらえることで、この歌には暗い不安の影が忍び寄る。けれども、それを振り切るように、歌詞は〈誤解や錯覚でも… 心を開いて〉と展開する。この歌詞がもし、聞くものの心を動かすようなものになっているのだと仮定するのなら、それは、〈人と深く付き合うこと私もそんなに得意じゃなかった〉(〈私も〉、すなわち〈あなた〉も)という前提によるところも大きいだろう。人とのかかわり合いが苦手、すなわち、あけっぴろげな交際が苦手な〈私〉あるいは〈あなた〉が、その重たい秘密のドアーを開くように〈心を開〉く。その、振るわれたありったけの勇気に、リスナーは感動するのだ。

そうして、「人は他者を、最大限の尊重を払うべき存在として認めることができるのだ」という命題と、「あなたのことを愛していないかもしれない けれども『心を開く/開いてほしい』」という勇気が同居することで、「心を開いて」はさらに強靭な詞世界観を獲得することになる、と言っては言い過ぎだろうか。つまり、「人は自分が愛していないかもしれない他者に対してですら、最大限の尊重を払うべき存在として認めることができるのだ」というロジックすら、「心を開いて」からは抽出できる、ということなのであるが。このようなロジックを、生のまま提示するのではなく、ほとんど「自分の心の動きを追う」ことだけで、結果的に描き出している。その達成は、決して軽んじられるものではないだろう。

心象描写が中心のこの歌において、だから二番のサビ、というのは非常なキモになってくる。そこにはひとつの「風景」が描かれているからだ。

ビルの隙間に二人座って
道行く人をただ眺めていた
時が過ぎるのが悲しくて
あなたの肩に寄りそった

〈ビルの隙間〉ということは、逆に言えば、二人の隣にはビルが聳えている、ということになる。ビルに両側を挟まれることにより、二人の相対的なちっぽけさは際立ち、また、〈道行く人をただ眺め〉るという営為は、「道行く人を観察する」という営為や「道行く人を眺める」という営為よりもさらに、主体性が希薄であるものだ。「自身の心の動き」をいっしんに追っていたはずの「心を開いて」において、ここはまさしく異色と言ってよい箇所だ。さらに、〈時が過ぎる〉という、人には容喙しえない圧倒的な現象でもって畳みかけられることによって、ここであたかも〈私〉はひとつぶの砂のようである。そんなひとつぶの砂が、わずかな自我を振り絞るように、そっと「あなたの肩に寄りそう」情景は、切実であり、その切実さは、ある種の美しさを湛えている。