小説

おりこうさん

――あきらくんはほんとうにおりこうさんだね。

そう言うと、八月朔日ほずみ先生は、おれの頭をやさしく二回なでました。一瞬何を言われたのか、自分が何をされたのかわからず、おれは上目づかいになって先生を見ます。けれども、先生は、さっきおれに英語を教えていたときと変わらない、おだやかなほほ笑みを浮かべたままです。おれはなでられた頭に、自分の手でも触れてみます。もちろん、どう触れてみても、おれが中学二年生の男であるという事実は変わりません。確かにおれは、いまだに身長が一五〇センチちょっとしかありませんが、しかし、「おりこうさん」と呼ばれるには、いささか薹が立ちすぎていることは否めないでしょう。

――おりこうさん、って、どういうことですか。

けれども、おれは口をとがらせてそう反駁したりはしませんでした。先生にけむに巻かれることがわかっていたから、ではありません。けむりを出しているのが、すなわち、薪のくべられた炎であるのが、自分である、という事実に気がついたからです。平たく言うのなら? おれはようやく気が付いたのでした。自分が恋に落ちたのだということを。

*

――じゃあ、陽くん。第一志望校合格、あらためておめでとう。ぼくはこれで……。

――先生。

おれは、ピーコートに手を伸ばしかけた先生に声をかけます。ん? というように、先生はおれのほうを振り向きます。

――……あの、えっと。

先生が家庭教師をしてくれるのも、今日でおしまい。この日のために、おれは入念にことばを用意していたはずでした。けれども、ことばというのは、概してかくれんぼが好きなものです。そうして、このときも例外でなく、おれの目の前からは消え失せていました。なにか、なんでもいいから言わなくちゃ。とにかく先生に告白しなきゃ。そう思いはするのですが――。

と、先生がふいにおれのほうに手を伸ばしてきました。おれは、先生が、自分のことを抱きしめるんじゃないかと思い、思わずびくりと身をふるわせます。けれども、先生は、おれをスルーして、机のうえのなにかをつかみます。

――ああ、これはぼくの万年筆だね。ありがとう、大切なひとにもらったものなんだ。

大切なひと。そのことばがおれの心にずんとのしかかります。恋人ですか、だなんて、もちろんそんなことをけるはずはありません。万年筆を胸ポケットにしまうと、先生はいつものほほえみを浮かべ、握手を求めるかたちに手を差し出しながら、ぼくにこう云いました。

――陽くんはほんとうにおりこうさんだなあ。

――先生は、いつまでおれを子供のままにしておくつもりですか?

おれの口をとっさについて出たのは、「愛の告白」などといううつくしいものではなく、こんな慳貪なことばでした。先生は手を差し出したまま、意味がよくわからない、とでも云うように、小首をかしげて見せます。その動作があんまりに無垢に見えて、ひるがえって自分はあんまりに汚れて感じられて、そのやるせなさが、おれの堰を切りました。

――先生、気づいてますか。おれ、もう先生より大きいんですよ、身長。野球部だから、肩の力もある。先生を押し倒すこと、なんて……。

云いながら、おれは自分がみるみるうちに自信を失くしていくのを感じました。おれは一度口を閉じます。けれども、口を閉じたところで、一度だれかの耳に届いたことばを、脳味噌から取り除くことはできません。沈黙がふたりのあいだを流れます。おれは、先生の無言さに悴んだように、ほとんど震えながら、ようやく最後にこう言いました。

――……おりこうさんじゃないおれは、先生にとって、価値はないですか?

おれはうなだれます。ソックスを履いたつまさきに熱いものがこぼれ落ちるのを待つまでもなく、自分の眼から涙が流れていることはわかりました。にじんだ視界のなかで、先生の手がようやくひっこめられるのが見えます。それから、スラックスのポケットをまさぐり、くしゃくしゃの紙をおれに差し出すのが。

おれに差し出す?

おれが顔を上げると、先生は、その手から、くしゃくしゃの紙を離しました。あわてておれは手を伸ばし、それをキャッチします。おれの頭のうえから先生の声が聞こえます。

――ぼくのマンションの住所。誰にも言わずに、ひとりでくることはできるかい?

手の中をまじまじと、おれは見つめます。くしゃくしゃの紙には、いっさい乱れのない先生の文字が、地図記号のような正しさでならんでいます。おれはぶんぶんと点頭しました。点頭しながら、ふと――こんな思いつきがおれのこころに去来します。

自分はなにか、とんでもなくひどいことをされるのかもしれない。

一生消えないような傷を、体に、心に負わされるのかもしれない。

もし、そんなことになったら、おれは――。

そんなおれの迷いや不安を打ち砕いたのは、先生の、くすり、という笑い声でした。はっとして、おれは顔をあげ、上目づかいで先生を見ます。けれども、先生は、いつものようにおだやかなほほ笑みを浮かべたままです。おれはなでられた頭に、自分の手でも触れてみます。「なでられた?」 いいえ、先生は一年前とは違い、おれの頭をなでたりしませんでした。「一年前とは違い」? 呆然としているおれの目の前で先生が、おもむろに口を開きます。

――陽くんはほんとうに、おりこうさんだね。