小説

ティファールの小人

タイトルは確か「こびとのくつや」だっただろうか。職人が寝ているあいだに、どこからともなくこびとがやってきて、親切にも徹夜で革を切ったり縫ったりして、その仕事を完成させてくれる、という有名な童話のタイトルは。機械化や高速化が進んだ現代では、ちょっとなかなかありえそうにない話、なのだが――さてさて、そういう世の中にあって、むやみやたらと勤勉なこびとというものは、もう、どこにも存在の余地がなくなってしまったのだろうか? ノン。いまでも、親切なこびとの存在を感じる瞬間、というものは、いくらでもある。たとえば? そう、たとえば――ティファールの湯沸かし器でお湯を沸かしている、そんな瞬間がそれだ。

そもそも。ティファールの湯沸かし器のことについて、いったいぜんたいどのくらいのひとがご存知なのだろうか? あの、水を入れ、パカッと蓋を締め、ポチッと把手のところについたボタンを押すだけでお湯が沸かせる、あの家電のことを? 薬罐よりもお手軽に湯を沸かせて、しかも、比喩として以外の火は用いずにお湯を沸かすことができる、比較的安心安全な装置。(ただし、蓋の中央を押したままにしておくと、お湯が泉のように口の部分からあふれ出たりするのもご愛敬。)けれども、それが安心安全であればあるほど、わたしは想像してしまうのだ。具体的に言うのなら、ケトルの底で原始的な火を焚き、原始的な薪をくべ、ふうふうと原始的なファイヤーブラスターで炎に息を吹き込んでいる、そんなこびとたちの姿を。

世の中には、目には見えない驚異的な力があふれている。それは、たとえば物理の世界では解明されているもののこともあれば、どんな理性でもまだ解明できていないもののこともあるけれども、あいにくと、理系科目についてはとんと芳しくないわたしにとっては、幽霊も、慣性の法則も、さして違いのない「大いなる不思議」だ。そういうものを理解しようとするとき、わたしの場合、こびとがお出ましになる。要するに、「あれはこびとさんの仕業なんだよ」というような仕儀だ。この習慣は、良きにつけ悪しきにつけ、さまざまな場面で顔を出し、お豆腐を腐らせてしまったとき、適当に味付けをした野菜炒めがことのほかおいしかったとき、わたしはこびとさんに思いを馳せ、ぷんすか怒ったり、ありがとうと手を合わせたりするのだ。

いま。わたしのそばには、みどりちゃんというひとりの女の子がいて、「あれはこびとさんの仕業なんだよ」とわたしがぽつりと口にしたりしたら、彼女はきっと、「えー、真魚ちゃん、なにそれ!」と、決してわたしをばかにするふうにではなく、興味津々の体で尋ねてくるだろう。でも、なんとなくそれを口にするのが憚られるのは、お祈りを口にしたらかなわなくなる、とか、それもあるけど、なにもかもを口に出してシェアする友情、というのに、わたしが臆病だからだ。だって、そんなことをしていたら、いつかは中身が底尽きて、からっぽになってしまって、そうしてわたしがみどりちゃんとけんか別れするときがくるとしたら、そのとき、わたしはいったいどうなってしまう? 考えるだけでぞっとする。


だから、わたしはティファールがお湯を沸かしてくれるのを見ながらいつも、こんなふうにぼんやりと考えるのだ。

わたしとみどりちゃんのあいだにずっと、友情の糸をつなぎとめてくれるこびとがいてくれますように、と。


おいしいダージリンを入れてみどりちゃんを呼ぶころには、わたしはもう、ティファールのこびとのことを、きっと忘れている。