小説

たたかうバターたち

「じゃあ右」

「わたしは左」

そう言って、わたしたちはコンロの火をつける。


百キロの綿と百キロの鉄、いったいどちらが重いでしょう? もちろん答えは「おんなじ」だ。それじゃあ、五十グラムのバターと五十グラムのバターでは、どちらが溶けるのが早いでしょう? これだって答えは「おんなじ」になるはずなのだけれども、なぜか実際の調理の過程では、そんなふうにうまくいったためしがない。

そこに目をつけたのがわたしたちだ。

「いけー、右!」

「がんばれー、左!!」

いつもは仲良しのみどりちゃんとわたしもこのときばかりは敵同士。フライパンの右と左に置かれたバターが、熱をくわえられて変化を来してゆくさまを、好奇と興奮の入り交じったまなざしで見守る。

こどものころ、薄い板の表側に釘を、裏側に磁石を置いて、磁石を動かすことで釘を動かす、という遊びを誰しもしたことがあるのではなかろうか。わたしにとって、フライパンのうえのバターの動きというのはまさにそれだ。熱という強力な磁石の動きにつれてあちらへ行きこちらへ行きしながら、バターはごみの重さに耐えかねて自らの底を破ってしまうごみ袋のように、徐々に自身のからだを溶かしてゆく。溶けていく過程で、バターはきわめてよい香りを放つ。熱をくわえられたときのヒトの嗅覚に働きかける反応、という意味においては、バターは花よりも優れていると言える。

おなじくこどものころの話になるけれども、わたしが読んだ絵本に、虎がとろけてバターになってしまうお話があった。これは二重に象徴的で、ひとつには、バターというものは溶けることによってその本質をあらわにするという点で、もうひとつには、バターというものは元来獰猛なものであるという点で、バターというものを言い当てているなあ、とわたしは思うのだ。そう、バターって、とっても獰猛。フライパンというコロッセウムのなかでたたかう闘士たちのようだ、と、この遊びをするたびにわたしは思うもの。うねる動きは、お互いに相手の様子をうかがっているところで、隙あらば、相手のふところに喰らいつこうとしている。そうして最後に訪れるのは、平べったい「死」だ。

ふと、わたしは思う。みどりちゃんとわたしは仲良しで、ほとんどけんかをしたりしないけれども、ときにはフライパンのうえのバターのように、取っ組み合ってたたかうことも、大事だったりするのかな、と。

「やったー!!」

そんなみどりちゃんの快哉で、すぐにわたしは我に返る。この勝負、先に溶けたほうが勝ちにするか、それとも溶け残ったほうを勝ちにするのかで意見が分かれるかもしれないのだけれども、わたしたちの場合、満場一致で前者とすることに決まった。

「ちぇっ」

わたしは笑いながら、きっとそうじゃない、と思う。取っ組み合ってたたかうことも、確かにたいせつかもしれないけれども、こんなふうにふんわりぼんやり仲良くやっていくのも、きっととてもたいせつなこと。ひととひととの関係に、たいせつじゃないやり方なんて、ありはしないわ。

わたしが両手をあげて敗者のポーズをとると、そのてのひらに、みどりちゃんが自分のてのひらをタッチしてきた。そう、ヒーローとその敵役が、最後に握手をすることで問題を解決する、というのも、戦いの顚末としては王道のもののひとつである。“Hit it off like this”、こんなふうにね。


ちなみにこの勝負、負けたほうはどうするのかって? みじんぎりにした大量のたまねぎを、飴色になるまで炒めるという罰ゲームに殉ずることとなっている。わたしたちの決闘は、最後にはおいしいカレーになって、わたしたちのからだをしっかりと満足させるのである。