小説

不謹慎

電気を消してから、まばたきをみっつかよっつするくらいのタイミングだった。キキーっという頻りにブレーキを踏むあまずっぱい音がして、それから、どん、という接触音。自分のことでもないのに、一瞬、心臓が、からだの外に放り出されたようなつめたさをおぼえた。どうしようか、と反射的にわたしは思った。それはここでは、みどりちゃんはもう寝てるだろうか、と、ほとんどおなじ意味でもある。が、重たい布団が動く気配がして、「真魚ちゃん、起きてる?」と、カナリヤのささやき声が、ほとんど時間をおかずに聞こえてきた。わたしは返事をするのではなく、体を起こして、スタンドの明かりをつけることでそれに応える。真魚ちゃんの赤いジャージ(黄色いラインが一本入っている)が、蛍光灯の下で見る時よりも、臙脂がかった色味で、ぽっと照らし出される。

カーテンがシュっとたばこに火をつけるような音を立てて開いて、わたしもからだを起こしかけた。が、かがみこみ、眼鏡ケースを開けて眼鏡を取り出して、あらためて立ち上がる。みどりちゃんの横にそっと立ち、彼女がにぎっているのと反対側のカーテンをにぎりしめると、すごく遠くまでが、くっきりと見渡せる気がした。

「事故だね」

「ほんとだ」

人身、ではさいわいにしてなさそうである。ジュースの自販機に、車がぶつかっている。そんな物損事故。ただ、そのせいで、自販機は、なかの電気系統がいかれてしまったのか、ものすごく光ったり、あんまり光らなかったり、まったく光らなかったりのグラデーションを、時間の波にあわせて描いていて、中に入っている缶やペットボトルのレプリカに巻かれた紙も、そのときどきで、濃い色うすい色に順番になっていった。

「警察とか呼んだほうがいいかな」

みどりちゃんが相変わらずささやき声なので――というわけではないけれども、うーんというわたしの相槌も、なんだかささやきめいている。たぶん事故に出くわしたとき、いつもと同じ声でしゃべれる人もいれば、いつも以上にでかい声をあげられる人もいるんだろうけれども、わたしたちは、なんだか後ろめたくって、小さな声になってしまうタイプらしい。わたしたちが、ほとんど黙り込んでいると、やがて車のなかから女のひとが出てきて、ポケットから取り出した携帯電話を耳元(まるでこのことを予期していたかのように、彼女の髪型は、耳をまるだしにしていた)に宛がった。

「だいじょうぶだ」

なんでもないときなら、くすり、とでも言いたいような感じでみどりちゃんが笑う。

「そうね」

なんでもないときなら、くすり、とでも言いたいような感じでわたしも笑う。

「雪、けっこう積もってる」

「ほんとだ」

あたかも今気づいたかのような声を、わたしはあげる。そんなわけない。たかだかまばたきじゅっこやにじゅっこするあいだに、まっさらなアスファルトがまっしろになるわけない。もちろん雪は、わたしたちが寝る前から降っていたのだ。

「そのせいで、すべっちゃったのかな」

「そうだね」

でも、わたしたちは、この世界に雪というものがあることを、識っているけれども知らない、赤道直下の国に生まれ育ったひとみたいに、新鮮なおどろきを伝え合う。そうしてまた、黙り込む。

遠くから、パトカーのサイレンの音がする。

「だいじょうぶだ」

「うん」

ふたたびわたしたちはうなずきあう。

みどりちゃんの口の前にある硝子は、みどりちゃんの指先によって曇りを拭われて、でもまだ水で湿っていて、ふいにわたしは、寒いなと思って、右足の裏を左足の甲になすりつける。わたしたちはなにをしているのかな、とつづけて思う。すぐうしろを振り返れば、まだわたしたちの体温が残るあたたかな寝床が、わたしたちをちゃんと待っているというのに。野次馬というのは、炎をつけられた蠟燭みたいなものだと思うけれども、わたしたちは、炎をともされていない野次馬みたい。

「不謹慎だって自分でも思うけどさ」

「うん?」

フキンシン、という、みどりちゃんが出し抜けに発したことばの意味をうまくとらえかねて、わたしは微妙に軌道の逸れた返事を返す。みどりちゃんの指先が、つ、と水で湿った硝子のうえの一点をぴっと差す。わたしはふたたび窓の外を見る。よく見ると、白い車の前部はわずかにへこんでいて、そのすぐ前には点滅する自販機。わたしが目を細めると、みどりちゃんは、息をつくこともなく言った。

「なんだかきれいね」

ああ、そうか、と、なんだかわたしは急にいろいろなことが腑に落ちたような気がした。わたしはみどりちゃんの、少しあかくなった指先を、ぎゅっと握りしめたいと思った。でも、そんなことはしないで、わたしはただ、ゆっくりとうなずく。

「……うん」

パトカーの音が、すこしずつすこしずつ近づいてくる。そうして、にんげんの世界を見下ろしている天使って、こういう気持ちかしら、とわたしは思う。