小説

かなしみ前夜祭

炎がぼぉっと勢いを増して燃え盛り、わたしの顔を熱くくすぶらした。飛び散る火の粉はまるで真っ赤に怒ったキャンディのよう。もしかしたら、手を伸ばそうとしてやめる、という選択肢もあったのかもしれない。でも、わたしは、はなから手を伸ばそうとはしなかった。わたしに届く前にどうせ消えてしまう、流れ星よりも儚いはかない熱だ。

わたしにははじめから、わかっていた。

うずらのてのひらが、わたしのてのひらの下からすっといなくなる。わたしは空に浮いてしまった手を、仕方なく芝生の上におろす。水に満ちた土が呼吸している感触。そうして、いなくなったてのひらは、鶉の膝の上に座り込み、そのてのひらの上には、憂いに満ちた鶉の顔がある。もうしおどきかな。そう思うのに、わたしは元気よく立ち上がることができない。それどころか、鶉の濡れたようにきらめく長い黒髪を、じっと見つめてみせることもできない。マジカルステッキ、あとひと振りぶんわたしのお願いを聞いてください、だなんてずうずうしいかな。前夜祭のキャンプファイアを一緒に過ごせただけでも、本来は僥倖というものなのだから。

――美蜂みはち

炎からひしと目を逸らさないまま、鶉はわたしの名を口にする。

――わたし、行ってくるね。

とうとう来てしまった瞬間は、もちろんわたしの右耳から左耳へと通り抜けたりしなかった。鶉のことばは、頭のなかでぐちゃぐちゃに絡まって、ときほぐすこともできない。それをときほぐして出てくるものは、意味ではなく鋏だ。わたしのこの気持ちを切り裂いて、わたしの心の床を血まみれにするための。だからわたしは息をできるだけ殺しながら、そっか、とつぶやく。しばらく、と言っていいくらいの時間が流れた。けれどもまだ鶉は立ち上がらなかった。そこへきてようやく、わたしは、わたしたちの「友情」が要請しているものがなにかということに気づく。

わたしは立ち上がると、芝生についていなかったほうの手、さっき鶉の手に添えていなかったほうの手、どんな欲望もまだ体現していないほうの手を使って、鶉の背中をたたく。そうして、せいいっぱいのほほえみを浮かべると、言った。

――はやく行ってきな。露地ろじくんねらいの子、きっといっぱいいるよ。

わたしの見立てでは、カッサンドラはデウス・エクス・マキナと呼ばれる存在ではない。けれども、わたしは予言者であり、その予言のとおりに交通整理を行い、その手を取って鶉を立ち上がらせた。鶉は緊張するとまばたきが多くなる。アサリというよりは、ハマグリみたいにおおきな目。吸血鬼でなくても齧りつきたくなるような白く細い頸筋。しっかりと上を向いているのに、ちっとも傲慢な印象を与えない鼻。客観的に見て美人の範疇に属する鶉に告白されて、悪い気持ちのするヘテロの男はいないだろう。うん、とわたしは、こしらえた笑顔のまま頷く。

――鶉なら大丈夫。自信持って! さあ、行ってこい!

鶉は二度ほど激しくまばたきをした。けれども、うん、と頷いたあと、わたしを見つめた数秒のあいだ、彼女の目はもう動かなかった。

――ありがと、美蜂。

そう言って、鶉はたたたた、と駆けていく。ああ、鶉の恋はうまくいくだろうな、とわたしは確信している。なにせ、露地くんの鶉を見つめる瞳ときたら、砂糖漬けのスミレのようなのだ。そう、鶉は露地くんの視線を意識することで露地くんの存在に気づき、露地くんへの好意を抱くようになったのだ。鶉がそのことに気づいているのかはわからないけど――そんな恋がうまくいかないはずがない。

明日の文化祭をふたりで回る約束は、たぶん果たされないだろう。それどころか、未来に向けて約束をすることすらできないふたりになってしまったのかもしれない。玉砕することがわかってても、鶉に告白しとけばよかったな。わたしは知っている。鶉は勇気がないように見えて、こうと決めたら肝が据わっている。いっぽうでわたしは、軽いように見えて、自分でも身動きがとれないほど重たい泥のなかに落ち込みがちだ。結局のところわたしは、例によって例のごとく臆病風に吹かれたのだ。

わたしは手をそらに翳す。真っ赤に怒ったキャンディは相変わらず降りつづけていて、けれども、途中で消えるだろう、というわたしの予想に反し、それはわたしのてのひらに着陸し、ちりり、とわたしのてのひらの一部を焼いた。空は噎せ返るほどに星の見えない闇、なまぬるく焦げた風がわたしの鼻腔を通り過ぎ、わたしはキャンプファイアに視線を戻す。あの火が燃え尽きるまで――もしかしたら燃え尽きたあとも、わたしはここにいるだろう。