小説

  • 小説

    或る翌朝

    ――……ぼくはひねくれているのかな?

    そういうと、雲母うんもは小首を傾げて見せました。思わずぼくは、声を殺して笑います。「小首を傾げる」という動作が、なにかすごく、いわばメタ的な、というか、動作のための動作的な、というか、そういうものとして感じられたからです。サイドテーブルから眼鏡を取り上げると、雲母はぼくが笑っていることに気づき、軽く口をとがらせてみせる(この動作も、漫画などではよく見かける心情表現ですが、日常生活ではあまりお目にかかることのないものと言っていいでしょう)ので、いよいよぼくは心置きなく大声で笑いはじめます。ぼすん、という音がして、雲母の気配がぼくの横に倒れ込んできたので、ぼくはようやく笑うのを止して、いとしいものを見つめるときの眼の細さをつくりました。白皙の王子様がやったとなら、それはひどく様になるのかもしれませんが、徹夜明けの腫れぼったい一重瞼の平民がする仕草では、ところかまわず好みの男女をいちころに、というふうにはいかないでしょう。

    雲母もぼくも、容姿に秀でたところがあるタイプではありません。ですが、ぼくは雲母のさらさらの髪に関して言うなら、控えめに言っても「大好き」ということになるでしょう。曲げた肘で頭を支えながら、もう片方の手で雲母の髪の間に指をいれます。そうして、雲母の髪の先端をそっとつまんで手を離します。髪の毛はすぐに元の場所に戻ります。その従順さときたら、きつめの天然パーマのぼくからすれば考えにくいことです。雲母はしばらくぼくの腕の動きを特に目を動かさずに見つめていましたが、やがて、軽く微笑むと、

    ――石英せきえい、ぼくがひねくれものかどうかは、きみにとっても大切なことだと思うよ?

    そう言って、ふたたびサイドテーブルに眼鏡を戻し、軽く微笑むと灯りを消しました。六月の午前六時の太陽が、雨戸の向こうではどんちゃん騒ぎをしていることでしょうが、あいにくこの部屋に、その浮かれきった声が届くことはありません。

    すぐにでも眠りに落ちるのはたやすいことです。なにせ、先ほど申し上げたとおり、ぼくたちは徹夜明けだったのですから。けれども、ぼくの身体は興奮のためか少し火照っていて、それは雲母にしてもおなじことのようです。はじめはぼくに背を向けて、ぼくが眠るのを待っているようにひそめた呼吸をしていたのですが、やがてこちらを向いて、

    ――ねえ、石英。ぼくはもうへとへとなのに、この体も、心もまだまだ眠りたくないみたいだ。

    ――それはぼくもおなじさ。

    ――あ、

    そう短く応ずる雲母の声は、どこかしら間の抜けたひびきを帯びてぼくの耳に届きました。ぼくはもう笑いません。かわりに雲母がくつくつと喉の奥で笑いはじめます。ぼくたちは恋人ですが、一心同体というわけではありません。比翼の鳥ですらないのでは、と思います。運命ではなく偶然、偶然が玉突き事故を起こして、なぜかそばにいる、そういうほうがふさわしい関係ではないでしょうか。けれども、なにがおかしいんだよ、そう尋ねるのはなんだか野暮な気がして、ぼくは開きかけた口を閉じました。ふたたび開いた口から出てきたのは、なぜか妙に心細げな声でした。

    ――今日のデモに集まったLGBTQ、そうじゃないひともいたのかもだけど、そのなかで、

    ――うん。

    ――絶望していないひとはどのくらいいるんだろう。あるいは……、

    ――ゼロだよ。

    絶望とはなんだろう、と言いかけたぼくを遮るように、自信たっぷりに雲母は言いました。ぼくは少々、だけれども「ほんとうに」おどろきます。

    ――ゼロなのか!

    ――そうだよ。みんなみんな絶望してる。絶望しつつ怒っている。そうしてはじめて行動が生まれる。死者的な、ゾンビ的な、生を剝奪されかけているものに特有の、あくまで純粋な行動が。

    そこまで早口で言うと、今度は雲母はおおきくため息をつきます。そうして、「ぼくはひねくれているのかな」、と、ふたたび口にしました。先ほど、「ぼくはひねくれているのかな」、の前に雲母が口にしたのはこんなことばです。「ほんとうは、なにかが変わるなんてこれっぽっちも思うことができない」。しかし――いまの雲母のことばを聞いて思いついたことがあります。すなわち、『あくまで純粋な行動には、企図など介在する余地はない』。つまるところ、そういうことではないのだろうか。

    ――石英、きみ、いま、泣いているね。

    雲母がそう言ったので、ぼくは動揺して自分の頰を拭いました。けれども、頰は濡れてなどいません。すなわち、ぼくは無自覚に涙を流していたわけではない、ということになります。けれども、雲母の泣いているね、ということばは、否、そのことばにこめられた固いものをすべて削り取ったあとのようなひびきは、やさしくぼくの涙腺を刺激しました。涙がぼくの眼からこぼれ落ちたのは、こういう次第です。

    泣いているね、と口にし、泣いていたのなら、慰めてくれるつもりなのか、と一瞬思いました。けれども雲母は、そう言うだけ言うと、ふたたびぼくに背中を向けてしまいます。ぼくは拍子抜けします。ひねくれているかどうかはさておき、やはり雲母のことはよくわかりません。そのわからなさを、少しずつ解決して知っていこう、という向上心すら、正直なところぼくにあるのかどうかはあやしいものです。離れがたい、離しがたい、という気持ちだけで愛と呼べるのか。むずかしいことはわかりません。ただぼくは膝を曲げて背中を丸め、折り畳まれたパイプ椅子のようにゆたかな眠りが体の中を満たしてくるのを感じながら、玉突き事故を起こしてくれた偶然に、ちいさくありがとうと伝えたのです。

  • 小説

    遠景の乙女たち

    きゃーっ! という、若い乙女がよくあげる、楽しそうな叫び声が聞こえてきました。口元に、ココアの入ったマグカップを持っていきかけていた手を止め、わたしが窓の外に目をやったのは、もちろんその「叫び」が要因といえば要因に違いありません。けれどもじつは、心のもっと深いところで、その「声」のほうに感応していた、というのがほんとうのところなのです。彼女の「声」は、一昨年亡くなった、昔なじみの友人の喜美ちゃんの、女学生時代の「声」にそっくりだったからです。

    わたしは眼を細め、部屋の窓から戸外を覗き込みます。冬空よりもよほど水色をしたセーターを――近頃のひとはニットというのでしょうか――着た乙女が、あんず色の手袋を嵌めた手に白いものを持ち、三メートルほど離れたところにいる、樫の樹のような色合わせの服の乙女に、それを投げつけようとしてます。樫の樹ガールは、顔、ではなく、なぜか耳を両手でおさえると、胸元でその白いものを受け止めました。白いものがはじけ、あたりに散らばり、一面の白いもののなかに埋もれます。なるほど、雪が積もっていたようでした。道理で冷え込むわけです。

    今度こそココアに口をつけながら、わたしはそっと、左手でお腹を押さえました。胃にスキルス性のがんができていることが判明してから、今日でおよそ半年が経ちます。手術に持ちこたえられるほど、わたしは若くはありません。あとどのくらいわたしの生命は保つのか――そんなことを考えながら、失せつつある食欲のなかで少しでもカロリーを、と考え、近頃朝は、砂糖をたっぷり入れたココアを飲むようにしています。もともと甘いものは好きですから、さほど苦にはなりません。

    もしかすると喜美ちゃんが迎えにきたのかもしれない。そんなふうにふと思ったのは、あらかたココアを飲み終えてからでした。十五年前に先立った夫ではなく、なぜ喜美ちゃんが? そりゃあ確かにわたしと喜美ちゃんは、無二の親友でした。水魚の交わり、といっても決して過言ではありません。戦時中はおそろいの布で防災頭巾をつくり、わたしが田舎へ疎開することになった際には、抱き合って涙を流しましたっけ。そうして、敗戦を迎え、それから、お互いに伴侶をもち、めまぐるしく変わっていく日本の様子を横目に少しずつ齢をとっていきながら、わたしたちは年に一度は顔を合わせて近況を報告しあうという、そういう仲でした。

    喜美ちゃんは、旦那さんと折り合いがあまりよくないようでした。近況報告の半分以上は、夫がうるさい、夫があれをしてくれない、そういう愚痴に終始し、正直に言うのなら、それに辟易することさえありました。でも、人は変わるものです。その変化を受け止めてこそ友情というものではありませんか。それに、ひとしきり夫の悪口を並べ立てた喜美ちゃんは、さっぱりした顔で言ってくれたものです。フサちゃんはぜんぜん変わらないね、と。それを聞いたわたしはうれしかったか? ん? とわたしは思います。「うれしかった。」ではなく、「うれしかったか?」とは。いったいなぜそんなふうに思うのでしょうか。

    きゃーっという叫び声がまた聞こえます。今度は喜美ちゃんとよく似た声――ではありません。おそらく樫の樹ガールが今度は叫び声をあげたのでしょう。交互にあがる叫び声。そういえば――と、わたしは思います。年に一度の集まり、わたしのほうから声をかけたことはなかったな、と。いっつも喜美ちゃんが、逢いたいな、というわたしの気持ちを見透かしたようなタイミングで声をかけてくれ、そうして旦那さんの愚痴に長広舌をふるう、というのがつねでした。いえ、ここ最近のことだけではない、よくよく考えればいつもそうでした。わたしのほうから喜美ちゃんに対して行動を起こしたことは、なかった。わたしはなにも言わなかった。防災頭巾の布でさえ、決めたのは喜美ちゃんでした。いま、はっきりと思い出しました。わたしはもう少し暗い色のほうがよかったのに、喜美ちゃんが、派手、とは言わないまでもちょっと明るめの色の布を選んで、ふたりして先生に怒鳴りつけられたのですから。しくり、と胃が痛みます。わたしは喜美ちゃんのなんだったのでしょう? それを言うのなら、喜美ちゃんはわたしのなんだったのでしょう? さっき「水魚の交わり」と思ったばかりなのに、ふいにそんな疑念がわたしをとらえ、鶏の脚のようにわたしの心をぎゅっとつかんだのです。

    何か、祈るような、すがるような気持ちがこみあげるままに、わたしはふたたび窓の外を見――そうしてぷっと噴き出しました。

    乙女たちは、雪の上で大の字になっていました。この寒い折ですから、いまどきの乙女たちは当然ずぼん姿です。とはいえ、なんて無防備、なんたる無茶!

    そのときになってようやく、わたしは思い出したのでした。疎開先から帰ってきた、あの日のことを。東京へ向かう列車のなかで、久しぶりに喜美ちゃんに会えるよろこびで、わたしは胸を弾ませていました。けれども列車から降りたわたしをプラットフォームで待ち受けていたのは、ぎゅっと拳を握りしめ、いまにも泣きそうにしている喜美ちゃんの姿でした。わたしを認めると、喜美ちゃんは駆け寄って来、わたしが疎開に行く時よりも盛大に泣きじゃくりながら、わたしを抱きしめたのでした。

    ――ふ、フサちゃんが死んでたら、あたしも死ぬって思ってた。

    肩に落ちる涙のあたたかさを感じながら、わたしは思います。ああ、やっぱりわたしたちは、友達だった。おそらく、いま雪の冷たさを全身で感じているだろうふたりの乙女たちとおなじくらいには、しっかりと。口に出せなかったこと、口に出しすぎてしまったこと、そういうのを全部ひっくるめて――あれがあのときのわたしたちの最善で最高だったのだ、と。

    天国に行ったら、喜美ちゃんに伝えなきゃ。わたし、あなたが旦那さんの悪口を言うのが少し苦手だったの、と。でも、喜美ちゃんがいてくれたから、わたしの人生は楽しかったよ、と。

    もう一杯ココアを出そうとわたしは袋を開け、もう残りが少ないことに気づきます。さいわいお天気も回復しているようですし、午後になったらまたココアを買いに行こう。新しいココアを買うのだから――せめてそれを半分は飲み干すまで、わたしは生きなくちゃ。

  • 小説

    おりこうさん

    ――あきらくんはほんとうにおりこうさんだね。

    そう言うと、八月朔日ほずみ先生は、おれの頭をやさしく二回なでました。一瞬何を言われたのか、自分が何をされたのかわからず、おれは上目づかいになって先生を見ます。けれども、先生は、さっきおれに英語を教えていたときと変わらない、おだやかなほほ笑みを浮かべたままです。おれはなでられた頭に、自分の手でも触れてみます。もちろん、どう触れてみても、おれが中学二年生の男であるという事実は変わりません。確かにおれは、いまだに身長が一五〇センチちょっとしかありませんが、しかし、「おりこうさん」と呼ばれるには、いささか薹が立ちすぎていることは否めないでしょう。

    ――おりこうさん、って、どういうことですか。

    けれども、おれは口をとがらせてそう反駁したりはしませんでした。先生にけむに巻かれることがわかっていたから、ではありません。けむりを出しているのが、すなわち、薪のくべられた炎であるのが、自分である、という事実に気がついたからです。平たく言うのなら? おれはようやく気が付いたのでした。自分が恋に落ちたのだということを。

    *

    ――じゃあ、陽くん。第一志望校合格、あらためておめでとう。ぼくはこれで……。

    ――先生。

    おれは、ピーコートに手を伸ばしかけた先生に声をかけます。ん? というように、先生はおれのほうを振り向きます。

    ――……あの、えっと。

    先生が家庭教師をしてくれるのも、今日でおしまい。この日のために、おれは入念にことばを用意していたはずでした。けれども、ことばというのは、概してかくれんぼが好きなものです。そうして、このときも例外でなく、おれの目の前からは消え失せていました。なにか、なんでもいいから言わなくちゃ。とにかく先生に告白しなきゃ。そう思いはするのですが――。

    と、先生がふいにおれのほうに手を伸ばしてきました。おれは、先生が、自分のことを抱きしめるんじゃないかと思い、思わずびくりと身をふるわせます。けれども、先生は、おれをスルーして、机のうえのなにかをつかみます。

    ――ああ、これはぼくの万年筆だね。ありがとう、大切なひとにもらったものなんだ。

    大切なひと。そのことばがおれの心にずんとのしかかります。恋人ですか、だなんて、もちろんそんなことをけるはずはありません。万年筆を胸ポケットにしまうと、先生はいつものほほえみを浮かべ、握手を求めるかたちに手を差し出しながら、ぼくにこう云いました。

    ――陽くんはほんとうにおりこうさんだなあ。

    ――先生は、いつまでおれを子供のままにしておくつもりですか?

    おれの口をとっさについて出たのは、「愛の告白」などといううつくしいものではなく、こんな慳貪なことばでした。先生は手を差し出したまま、意味がよくわからない、とでも云うように、小首をかしげて見せます。その動作があんまりに無垢に見えて、ひるがえって自分はあんまりに汚れて感じられて、そのやるせなさが、おれの堰を切りました。

    ――先生、気づいてますか。おれ、もう先生より大きいんですよ、身長。野球部だから、肩の力もある。先生を押し倒すこと、なんて……。

    云いながら、おれは自分がみるみるうちに自信を失くしていくのを感じました。おれは一度口を閉じます。けれども、口を閉じたところで、一度だれかの耳に届いたことばを、脳味噌から取り除くことはできません。沈黙がふたりのあいだを流れます。おれは、先生の無言さに悴んだように、ほとんど震えながら、ようやく最後にこう言いました。

    ――……おりこうさんじゃないおれは、先生にとって、価値はないですか?

    おれはうなだれます。ソックスを履いたつまさきに熱いものがこぼれ落ちるのを待つまでもなく、自分の眼から涙が流れていることはわかりました。にじんだ視界のなかで、先生の手がようやくひっこめられるのが見えます。それから、スラックスのポケットをまさぐり、くしゃくしゃの紙をおれに差し出すのが。

    おれに差し出す?

    おれが顔を上げると、先生は、その手から、くしゃくしゃの紙を離しました。あわてておれは手を伸ばし、それをキャッチします。おれの頭のうえから先生の声が聞こえます。

    ――ぼくのマンションの住所。誰にも言わずに、ひとりでくることはできるかい?

    手の中をまじまじと、おれは見つめます。くしゃくしゃの紙には、いっさい乱れのない先生の文字が、地図記号のような正しさでならんでいます。おれはぶんぶんと点頭しました。点頭しながら、ふと――こんな思いつきがおれのこころに去来します。

    自分はなにか、とんでもなくひどいことをされるのかもしれない。

    一生消えないような傷を、体に、心に負わされるのかもしれない。

    もし、そんなことになったら、おれは――。

    そんなおれの迷いや不安を打ち砕いたのは、先生の、くすり、という笑い声でした。はっとして、おれは顔をあげ、上目づかいで先生を見ます。けれども、先生は、いつものようにおだやかなほほ笑みを浮かべたままです。おれはなでられた頭に、自分の手でも触れてみます。「なでられた?」 いいえ、先生は一年前とは違い、おれの頭をなでたりしませんでした。「一年前とは違い」? 呆然としているおれの目の前で先生が、おもむろに口を開きます。

    ――陽くんはほんとうに、おりこうさんだね。

  • 小説

    かなしみ前夜祭

    炎がぼぉっと勢いを増して燃え盛り、わたしの顔を熱くくすぶらした。飛び散る火の粉はまるで真っ赤に怒ったキャンディのよう。もしかしたら、手を伸ばそうとしてやめる、という選択肢もあったのかもしれない。でも、わたしは、はなから手を伸ばそうとはしなかった。わたしに届く前にどうせ消えてしまう、流れ星よりも儚いはかない熱だ。

    わたしにははじめから、わかっていた。

    うずらのてのひらが、わたしのてのひらの下からすっといなくなる。わたしは空に浮いてしまった手を、仕方なく芝生の上におろす。水に満ちた土が呼吸している感触。そうして、いなくなったてのひらは、鶉の膝の上に座り込み、そのてのひらの上には、憂いに満ちた鶉の顔がある。もうしおどきかな。そう思うのに、わたしは元気よく立ち上がることができない。それどころか、鶉の濡れたようにきらめく長い黒髪を、じっと見つめてみせることもできない。マジカルステッキ、あとひと振りぶんわたしのお願いを聞いてください、だなんてずうずうしいかな。前夜祭のキャンプファイアを一緒に過ごせただけでも、本来は僥倖というものなのだから。

    ――美蜂みはち

    炎からひしと目を逸らさないまま、鶉はわたしの名を口にする。

    ――わたし、行ってくるね。

    とうとう来てしまった瞬間は、もちろんわたしの右耳から左耳へと通り抜けたりしなかった。鶉のことばは、頭のなかでぐちゃぐちゃに絡まって、ときほぐすこともできない。それをときほぐして出てくるものは、意味ではなく鋏だ。わたしのこの気持ちを切り裂いて、わたしの心の床を血まみれにするための。だからわたしは息をできるだけ殺しながら、そっか、とつぶやく。しばらく、と言っていいくらいの時間が流れた。けれどもまだ鶉は立ち上がらなかった。そこへきてようやく、わたしは、わたしたちの「友情」が要請しているものがなにかということに気づく。

    わたしは立ち上がると、芝生についていなかったほうの手、さっき鶉の手に添えていなかったほうの手、どんな欲望もまだ体現していないほうの手を使って、鶉の背中をたたく。そうして、せいいっぱいのほほえみを浮かべると、言った。

    ――はやく行ってきな。露地ろじくんねらいの子、きっといっぱいいるよ。

    わたしの見立てでは、カッサンドラはデウス・エクス・マキナと呼ばれる存在ではない。けれども、わたしは予言者であり、その予言のとおりに交通整理を行い、その手を取って鶉を立ち上がらせた。鶉は緊張するとまばたきが多くなる。アサリというよりは、ハマグリみたいにおおきな目。吸血鬼でなくても齧りつきたくなるような白く細い頸筋。しっかりと上を向いているのに、ちっとも傲慢な印象を与えない鼻。客観的に見て美人の範疇に属する鶉に告白されて、悪い気持ちのするヘテロの男はいないだろう。うん、とわたしは、こしらえた笑顔のまま頷く。

    ――鶉なら大丈夫。自信持って! さあ、行ってこい!

    鶉は二度ほど激しくまばたきをした。けれども、うん、と頷いたあと、わたしを見つめた数秒のあいだ、彼女の目はもう動かなかった。

    ――ありがと、美蜂。

    そう言って、鶉はたたたた、と駆けていく。ああ、鶉の恋はうまくいくだろうな、とわたしは確信している。なにせ、露地くんの鶉を見つめる瞳ときたら、砂糖漬けのスミレのようなのだ。そう、鶉は露地くんの視線を意識することで露地くんの存在に気づき、露地くんへの好意を抱くようになったのだ。鶉がそのことに気づいているのかはわからないけど――そんな恋がうまくいかないはずがない。

    明日の文化祭をふたりで回る約束は、たぶん果たされないだろう。それどころか、未来に向けて約束をすることすらできないふたりになってしまったのかもしれない。玉砕することがわかってても、鶉に告白しとけばよかったな。わたしは知っている。鶉は勇気がないように見えて、こうと決めたら肝が据わっている。いっぽうでわたしは、軽いように見えて、自分でも身動きがとれないほど重たい泥のなかに落ち込みがちだ。結局のところわたしは、例によって例のごとく臆病風に吹かれたのだ。

    わたしは手をそらに翳す。真っ赤に怒ったキャンディは相変わらず降りつづけていて、けれども、途中で消えるだろう、というわたしの予想に反し、それはわたしのてのひらに着陸し、ちりり、とわたしのてのひらの一部を焼いた。空は噎せ返るほどに星の見えない闇、なまぬるく焦げた風がわたしの鼻腔を通り過ぎ、わたしはキャンプファイアに視線を戻す。あの火が燃え尽きるまで――もしかしたら燃え尽きたあとも、わたしはここにいるだろう。

  • 小説

    水でいっぱいのプール

    ぽつり、と雨が頰を打った気が一瞬した。俺は頰を拭ってみるけれども、拳に濡れた痕跡は触れることがない。気のせいだったのか、消えてしまったのか――しかし、台風が近づいている気配は、まぎれもなく感じられる。からっぽの寸胴鍋の中に街ごと閉じ込められたように、吹きつけては何かにぶつかる風の音が強まっている。雲がまるで巨大な掌に思いっきり押されているように、ぐんぐんぐんぐん流れていく。こんな日に、市営プールに泳ぎに来るもの好きは、なるほど、いないだろうし、いたとしても、「台風のため本日閉鎖しております」の看板を見て舌打ちして引き返さなければ、ただの不法侵入者だ。

    プールサイドで拾った枯葉を、俺は手の中で握りつぶした。葉脈を残して、かさかさに砕ける感触が手の中でする。枝についている葉は、握りつぶしてもこんふうになったりしない。みずみずしいとはそういうことで、そうしてそれは人間もきっとおんなじだ。体内の七十パーセントの水が、抱きしめられてもかさかさに砕けないように愛に餓えた獣たちを守ってくれる。

    ちゃぽんちゃぽん、と、水面が揺れて、プールサイドに波打ち際をつくる。俺は誰もいないプールに向かって目を細めてみる。思えば、こんなに水でいっぱいのプールをまじまじと見るのははじめてかもしれない。否、いつも水でいっぱいはいっぱいなのだけれども、それ以上にプールは人でぎゅう詰めである。ふだんはシフトが、十二時から十五時と短時間であることも関係しているだろうが。だからこんな、水だけの、水で満たされてるだけの感じのプールを見ることはない。なんだかこのしずかさは、不思議と俺の背骨の下のほうををそわそわとさせた。

    俺は第三レーンの飛び込み台の上に立ち、腰に手を当ててぐるりと水でいっぱいのプールを見回す。ふと、こんなところで泳いだらさっぱりするだろうな、という悪魔のささやきが聞こえる。俺は苦笑する。とはつまり、今の俺には「さっぱりさせたいことがある」、ということだが。

    ……きのう俺は同じゼミの男子に告白された。人好きのする、だけれどもものしずかなところのある秀才タイプで、俺とは正反対のタイプ。それこそ、台風の目のようなところのあるやつ。だけれども、俺のことを一年のときからずっと見ていて、ずっと好きだったという。

    そのとき率直に言って、俺はもったいないな、と思った。彼が同性愛者であることに対してではもちろんなく、俺なんかを好きになったことに対してでは少しあるかもしれないが――具体的に言うなら、こうだ。そんな、いつもなら他人には絶対に見せないような無防備に赤く染まった頰を俺に見せるだなんて、なんて、もったいない。俺、図に乗っちゃうじゃないか。しかし、図に乗るとはどういうことだろう? 俺は自分を同性愛者や両性愛者だと思ったことは、これまでなかったのに。

    ――位置について。

    頭のなかでそんな声がする。その声のままに俺は飛び込み台に手をつく。

    ――よーい。

    俺はちらりと前方を見る。水でいっぱいのプール。これは徒競走の合図で、水泳は違った気もするな、とも思う。でも、頭のなかの声に文句を言ったって仕方がない。

    ――スタート!

    その声を皮切りに、俺は水中に飛び込んだ。

    クロールをしていると、ときどき見たこともない景色が見える。見たこともない――いや、それは大げさかもしれない。息継ぎのタイミングで見える、そこに確かにあったのだけれども、そんな角度で見たことがなく、いままで気づくことのなかった景色。俺は必死でバタ足をして、両手を掻いていく。思考がおいつかないスピードで。感覚だけを研ぎ澄ますようなスピードで。隣のレーンにはむろん誰もいない。これはあくまで、自分との闘い。あるいは、自分に対する決着。時間にして、三十秒もかからない。ゴーグル越しに見える世界の果てに、俺は手をついた。

    俺は水面から顔を出し、ゆっくりと振り返る。プールが波打っているのは俺が泳いだせいか、近づいている台風のせいか。

    それとも、俺の心が、確かに清く波打っているせいか。

    プールサイドに上がると、俺はゴーグルを外し、タオルで体を拭きながら、くっくっくっと笑った。そうして空を見上げた。ぽつり、と今度こそ確かな雨がひとつぶやってきて、俺のまつげを打つ。早く更衣室に戻らなくてはならない。早く更衣室に戻って、きのう交換したばかりのLINEのアドレスに、「俺もきみのこと、好きになったみたい」と伝えなきゃ。

  • 小説

    短死系

    「死は汚い。」と文月は言った。ここでの『汚い』は『ずるい』の意味ではなく、文字通り『汚れた』の意味であることを付言した文月は、しかしその根拠まで明言することはなかった。無神論者の哲学者が言うくらいなのだから、その『汚れ』は、おそらく塩を撒くこととの間には懸隔があったろうに、ぼくはあの日、その『秘密』を知ることはできなかった。

    あの日、曇り空はどんな天使の喇叭をかき鳴らしても割ることが出来なさそうなほど低く暗く垂れこめていて、なのに文月の顔は、どこから光を集めて来たのか、圧倒的な眩さに満ちていた。ぼくは思わず眉をひそめそうになった。文月の発言を不謹慎と思っているのだと誤解をされかねないことの心外さから、結局そうはしなかったけれども。

    もしおれがお前より先に死んだら一篇の詩を書いてほしい。そう文月は膝を払いながら言った。だから、「死は汚い。」と言った時、文月は、膝を土についていたのだと思う。なのにぼくは、ぼくたちがどこでその会話をしていたのだか、不思議なことだろうか、どうしても思い出せない。「詩?」と尋ねかえす時に、自分の口元が慄くように歪み、少し甘えたような媚を含んだ笑いの調子を帯びたこと、その媚に応じるように、文月が真率な調子を崩した――崩してしまったという事実には、今となっては後悔の念が湧き起こる。「おう、詩だよ、お前なら書けるだろ。」「書けねえよ。」いよいよぼくは笑って、文月も答えるように笑って、二人分の笑いの渦は大きく、先程彼が発した毅然とした命題も呑み込み、ぐずぐずに壊れて溶けてしまった。愛はいつだって地球を救うとは思っていなくても、笑いはいつだって二人を助けると思っていた浅はかさは、若さゆえのものと片付けてしまうには苦々しいものだ。

    ……あれから何年経ったのか。正確に指折り数えるべきなのか、それとももっとぼんやりとしているべきなのか。詳細は与り知らぬけれども、文月は揉め事を起こして事実上学界から追放されたらしい。ぼくは運よく手掛けた小説が純文学の登竜門と呼ばれる賞を受け、そのまま筆で糊口を凌いでいる。行きがかり上、お互いに、罵詈讒謗を吐くのは知り合った頃よりだいぶ上手くなっていた。一頻り人を腐しあったあと、ふとお互いに見つめ合い、見透かし合い、今度は上手くなっていない方の言葉遣いを、意味が通じる程度になんとか組み合わせて、二人で暮らしはじめた、そんな矢先のことだった。

    「おう、詩だよ、お前なら書けるだろ。」「書けるよ。」ぼくは小さくつぶやくと、サインペンを鞄から取り出して、破りとった手帳に書きつける。

    『文月大地 享年三五』

    これほど端的で、これほど美しく、これほど胸を打つ詩はないだろう。ぼくは文月の反応を伺おうと、そっと顔を覆っている白い布をめくってみる。「死は汚い。」「どこがだよ。」深い悲しみの中で、ぼくは砂を詰められた花瓶のように苦笑した。文月の顔は、どこから光を集めて来たのか、圧倒的な眩さに満ちていた。

  • 小説

    夏空一過

    こんなところに隠れるんじゃなかった、と、ヒロノブは後悔していた。縁の下はじめじめしていて、やたらと蟬の鳴き声が大きく響いて聞こえる。ズボンもシャツも、母親に叱りつけられるくらいには汚れているだろう。何よりここは――そう思いながら、ヒロノブは掌で地面をそっと撫でる――何よりここは薄暗くって、まるで星のないプラネタリウムみたいだ。当初は妙案と思えた隠れ場所も、ヒロノブが臆病者であることを勘案すると、決して最良の場所とは言えないことが次第しだいにわかってきた。とはいうものの、この場を飛び出したら、鬼役のタケにすぐ見つかってしまうだろう。陽気におーいヒロノブどこだー、と呼ばわるタケの声が、その陽気さも含めて、今のヒロノブには酷く恨めしかった。

    それでも、ヒロノブがなんとか持ち堪えることができていたのは、二本の白い足のおかげだった。二本の足は、おそらく母親のものだろう、洗濯物でも干しているのか、あちらとこちらを行ったり来たりしている。あの足がぼくの目の前にある限り、ぼくは鬼には捕まらない。(きっと母親は、自分を守ってくれることだろう。)そんな安堵ゆえに、ヒロノブは縁の下で息を潜め、自分を匿うことができていたのだった。

    ヒロノブが違和感に気付いたのに、特にきっかけがあったわけではない。ともかくヒロノブは、やがて、自分の目の前の足が靴を履いていないことに気がついた。たとえ庭でも裸足で外に出るな、と、母親はヒロノブに口を酸っぱくして言っている。そんな母親が裸足で洗濯物を干したりするだろうか? そんなふうに考えてみると、その足は、いささかばかり白すぎるように思えた。ヒロノブの母親は地黒なのを気にしていて、外で遊びまわっているヒロノブと同じような肌の色をしている。果たしてそんな母の足を「白い」と自分は思うだろうか? それじゃああれは、と思った瞬間、でろん、と長い尻尾が、裸足の足の間から垂れ下がった。

    悲鳴をあげそうになるのを、ヒロノブは懸命に押し殺した。泥まみれの掌を口元に押しつけ、必死で息を殺す。髪の生え際から、冷たい汗が、火に炙られた蠟のように滴ってくる。白い長い足は何かを待っているように、トントン、と大地を叩く。それからまた、右往左往を始める。一体自分は何を見ているのだろう。一体何が起こっているのだろう。でも、これは見てはいけないものに違いない。もし見ていることが露見したら――。ヒロノブは寝そべったまま後退りをはじめようとした。けれども、そんなヒロノブの目の前に、さらに一対の足と一本のしっぽがどこからともなくやって来て、ヒロノブは喉の奥で掠れた声を思わずあげた。幸いなことに、足は四本のうちのどれも膝を曲げることなく、つまりは、かがみこんでヒロノブをのぞき込もうとすることなく、爪先と爪先で口づけをするように相対していたのだけれども。

    やがて、後から来たほうの足が、すっと白い足の横に並ぶ。四本の足はゆっくりと歩調を揃えて歩き始める。あの時のもったりとした時間の流れ方を、生涯自分は忘れることはないだろう。ともかく、足はヒロノブの視界から消えた。それから、さらに幾許かの逡巡があった。けれどもヒロノブは、ようよう縁の下から外へ出る。

    とたんに、激しい夕立が、ヒロノブに襲いかかった。ヒロノブは目を細めて空を仰ぐ。まるで水たまりのように自分の上にだけ雲があり、あとは青空が広がっている。あー、ヒロノブ見っけー、というタケの声を遠くに聴きながら、ヒロノブは夕立のはじまるところを、誰かが空という硝子に息を吹きかけてできた曇りを、一心に見つめていた。

    今でも夏の、あの糖度の高い空を見るたびに、思い出される出来事である。


    8p折本用のデータはこちらからDLいただけます。

    ※8p折本の切り方/折り方は、8p折本ツールさんをご参照ください。

  • 小説

    「次の夏」幻想

    どこまでも続く青と水色を埋め合せるように、何羽かの白い鳥が、印象派のタッチさながらに、水平線を蹴って空へと飛び立っていく。砂の上には、子供心に拵えた小さな塔がひとつ、まだ雨龍は寝息を立てているが、わたしは万にひとつでもそれが崩れないようにそっと、いつのまにか手にしていたあたらしい傘を開いて砂地にそっと差す。塔と海鳥のあいだには、ひとりのあなたがいて、不思議なことにあなたは、陸のほうも海のほうも見つめていない。陸と海に跨るようにわずかに足を開き、左足だけを器用に波にさらしている。わたしはとっくにこれが夢だと気づいているが、どれだけじっと見てみても、あなたの表情が曇り空の向こうに浮かぶ太陽のようにぼんやりとしかわからないので、なおさらこれが「あなたの夢」だと気づく。とはいえ、獏が鏖殺みなごろしにされた世界に足を踏み込んで、夢を見つづけるのは、ひどく剣呑なことだ――そう思いながらも、そのまま、いったいどれだけのあいだそうしていたことだろう?

    ――おかえりなさいな。

    ようやくわたしは、その必要に気づいてあなたに声をかける。「愛するあなたに」と言ってももちろん構わない。あなたはわたしのほうを見ないで、わずかに首を傾げる。ちょうどそれは、海に長い間浸かったあと、耳に忍び込んだ水を吐き出させようとするときの仕草に似ている。

    ――あなたがここに来るにはまだ早い。せめてそう、次の夏、次の夏が来るまでは、焼きたてのパンのような寝床でお眠りなさい。

    わたしがそういうと、あなたは初めてわたしのほうを見た。ぼんやりとしかわからないはずのその表情が、なぜかいかにも苦笑めいてみえたので、わたしは少しどきりとする。

    ――何を言うの。

    あなたの声は、あなたの表情よりはよくこの世界に通った。適切に吹く海風が、あなたの声を適切に、わたしの耳に運んできたのかもしれない。

    ――「次の夏」なんて来ない。それどころか、「ひとつ前の夏」もない。資料も統計も改竄されて、「夏」という季節は喪われてしまったのだから。

    わたしが何かを言う前に、あなたはゆっくりとかぶりを振ると言った。

    ――ねえ、わたしとあなたのいる世界は違うけれども、そこには幸い明確な境界線があって、境界線のうえになら立つことができる。そうでしょ? なら境界線のうえでわたしを抱きしめて。

    あなたはさびしそうにそう言った。仮にさびしそうな声でなくても、わたしはさびしそうにと思っただろう。惻隠そくいんの情を覚えただろう。だから、言われるがままに、わたしはあなたに近寄ると、あなたをきつくきつく抱きしめる。後ろは振り返らない。だっていま、わたしが塩の柱になってしまったなら、あなたはきっと悲しむだろうから。でも、ほんとうは後ろを振り返りたくてたまらない。まるで空(くう)を抱きしめているように、あなたの体温がまるで感じられないことは、わたしにとって哀しいことだから。

    あなたはどう思ってる? あなたは何を感じてる? そう思いながら、わたしはゆっくりあなたから身体を引きはがす。けれども、あなたがどう思っているのかはわからない。なにせあなたの表情は、曇り空の向こうに浮かぶ太陽のようにぼんやりとしかわからないので。

    ――ありがとう。

    そうあなたが言うが早いか、ざぶんという音がして、わたしは少し遅れてあなたが海に帰ったことを知る。ときどき人魚の尾びれを海面に覗かせながら、水平線に向かって逞しく泳いでいくあなたに、わたしは胸の前で小さく手を振った。


    8p折本用のデータはこちらからDLいただけます。

    ※8p折本の切り方/折り方は、8p折本ツールさんをご参照ください。

  • 小説

    食器の方程式

    洗った食器を片づけることほど業腹なことは、「生活」の中にはない――とは言えないからこそ、わたしはためらっているのだ。洗濯物だってそう。自分のものではない髪の毛が自分の家の洗面台に散らばっていたりなんかしたら、わたしはきっと、怪獣みたいに炎を吐くことこそないけれど、かちんときてしまうだろう。

    ……なんだか水回りのたとえばかりになってしまったが、要するにわたしは、「業腹」とまではいかなくても、その一連の作業が、確かに「嫌い」ではあるのだ。ましてやそれを、他人のために行うとなると――。

    事の発端はこうだ。わたしの通う学部では、二年次からキャンパスが移転する。それも、一年次までのキャンパスとは、県境を跨ぎこすくらいには遠くに。当然のようにそれに伴うことといったら? そう、引っ越しだ。もちろん、両方のキャンパスの中間地点あたりに家を借りる、という手もあるが、その中間地点というのが、ちょうど、東京都中央区で言うのなら、銀座のあたりになってしまい、篦棒に賃料が高い。だいたい、電車に揺られる時間があるなら一分でも一秒でも長く、惰眠をすやすやむさぼりたい、というのが乙女心というものではないのか。

    「うーん、ここもダメ!」

    不動産屋さんからもらってきたチラシに、わたしは大きく赤ペンで×をつける。長谷川さんは、コタツ(わたしの部屋には一人暮らしの淑女の嗜みとして、コタツがある)の上にわたしがおいたチラシを手に取り、N字に目を走らせると、軽く首を傾げた。

    「良さそうだと思うけど?」

    「ベランダが北向きじゃない、この部屋」

    「あ、ほんとだ」

    「タオルとかはさ、やっぱり日のあたる場所に干したいんだよね、わたし的に。毎日使うものだし」

    「そうだねー。たしかに」

    長谷川さんは、クリアPP加工がされたチラシをていねいに半分に畳み、それからもう半分に畳むとゴミ箱に捨てる。それから、おせんべいを一枚取り上げ、

    「いまのところ、柏木さんのお眼鏡に適うところはないの?」

    そう言って、ぱりん、とおせんべいを齧る。

    「うーん、ないわけじゃなくて……」

    わたしはお茶を濁す。これは、慣用的な表現ではなく、煎茶をゆのみからすすったらお茶が文字通り濁った、の意味だ。お茶が透明になるのを待ち、わたしは答える。

    「一件、すごくいいとこがあったんだけど。ちょっとそこはひとりで住むには広くって。家賃がそのぶん高くなっちゃうし。どこかで妥協しなきゃならないんだけどね」

    「そうだよねー。妥協必要だよねー」

    長谷川さんは、おせんべいの最後のひとくちを口元に持って行きかけ、そうして、ふと、あ! と電球マーク型の声をふいにあげた。

    「じゃあさ、柏木さん、もしよかったら、だけど、みどりとルームシェアしない? じつはみどりも住む部屋まだ決めてなくて。みどり、あんまり住むとこにこだわりないから、北向きの部屋でも、事故物件でも、だいじょうぶだよー」

    「るーむ、しぇあ」

    鸚鵡返し、という言葉があるけれども、鸚鵡のように音調や抑揚もそっくりにことばを返せるのなら、じつはそれは大したものだろう。わたしは、言われたことの意味が即座にはよくつかめずに、あたかもカタカナのことばをひらがなにしたような返事をする。

    「もちろん無理にってわけじゃないけど、みどり、なんとなく柏木さんとなら、いっしょに暮らせるかなあって思って」

    「るーむ、しぇあ、かあ」

    そうして、わたしはコタツの上に置かれた急須とほとんど空になったふたつのゆのみを目に留めて、冒頭の思考へと立ち戻るのだった。

    そりゃあ長谷川さんはいい子だ。趣味も合うし、たぶん部屋の汚さ……おっと、きれいさも、おんなじくらいだ。でも、わたしが他者と暮らす? 人が使った食器を洗う? わたしが? そりゃあ、たまにならいいけれども、毎日まいにちそれを繰り返す?

    わたしに果たしてそれが出来るのだろうか?

    長谷川さんは、わたしが返事を躊躇しているのを気にとめている風情もなく、もう一枚おせんべいに手を伸ばし、お茶の最後のひとすすりまで飲み終え、

    「ごちそうさまでした。あー、日本茶おいしかった!」

    と両手を合わせた。

    「いえいえ、お粗末さまでした」

    わたしがゆのみを二つもって立ち上がりかけると、

    「あ、柏木さんは座ってて」

    そう言いざまに、長谷川さんはわたしの手からゆのみを取り上げた。

    「え?」

    「洗い物はみどりがやるから」

    そう言うと、長谷川さんは、キッチンに向かい、水道のバルブをひねり、水洗いをはじめる。そんな長谷川さんの鼻歌を聴きながら、わたしの手のなかから消えたゆのみをじっと見つめる。

    ああ、そうか。わたし、だれかと共同生活したら、自分のやらなきゃならないことが二倍になると思ってた。でも、長谷川さんは、きっとわたしのやらなきゃいけないことを、二倍にしたりはしない子だ。それどころか、きっと、半分にしてくれる、そんな子だ。

    柏木さん、スポンジはどれ使えばいいー? と尋ねてくる長谷川さんに、わたしは、オレンジと黄色のやつ使ってくれるー、とコタツに座ったまま返事をする。うん、わたし、彼女とならやっていけそう。そう思いながら、わたしは、クリアファイルに挟みコタツの天板の下に隠してあった「とっておきの物件」のチラシを取り出した。

  • 小説

    リボンちゃんの抑圧的犯行

    世の中にはふたとおりの人間がいる。探しものをするとき、「文字通り」箱や引き出しをひっくり返すタイプの人間と、そうではない人間だ。真魚ちゃんは前者のタイプで、そういう子がほんとうにいるとは――すなわち、そんな豪快に探しものをする子がいるなんて!――知らなかったみどりは少し驚いた。そうして、そういう探し方をするメリットがあるということも同時に知った。すなわち? 近くにいるひとが探しものをお手伝いできるという点だ。

    「あ、ごめんねみどりちゃん! 待たせたうえに手伝わせて!!」

    真魚ちゃんのとなりにかがみ込んだみどりに、ちょっと早口になって真魚ちゃんは言う。

    「ううん、いいの。映画七時二十分からでしょ? まだぜんぜんヨユーだし!」

    そう答えて、真魚ちゃんのコレクションのなかからお目当てを探すべく、みどり、軽く腕まくりをすると、笑って見せた。真魚ちゃんの寄っていた眉根が、軽くほころぶ。そうしてすぐにまた、きゅっと皺が寄る。

    「もう、なんで、ちゃんとおんなじところに片付けてるつもりなのに、見つからないのかなあ」

    「ああ、そういうことってあるよね。不思議だよね」

    そう、ほんとうに不思議である。真魚ちゃんは、そうしてみどりもだけど、整理整頓にそこまで無頓着じゃない。だって、「アカノタニン」が一つ屋根の下に暮らしているのに、たとえば脱ぎっぱなしのジーンズが共用スペースに置かれたりしてたらいやじゃない? 少なくとも、みどりたち、そこらへんの価値観は近いものを持ってると思う。

    にもかかわらず、真魚ちゃんは、お出かけ前になるとよく、あれがないこれがない、と言っている。くり返すけれども、不思議だ。今日探しているのは真っ赤なリボンが一面に散ったハンカチ(通称:リボンちゃん)である。三ヶ月ほど前、一緒にマルイに行ったときに購入し、みどりが知る限りはまだ一回も使ったことがなくって、今日がその、俗世間に対するお披露目となる――はずなのだが。

    「ないねえ」

    「うーん」

    きっちりとアイロンをあてられたハンカチの山のなかで腕組みをし出した真魚ちゃんに、お茶でも持ってきてあげようと立ち上がったみどりは、何の気なしにドアーのほうを見て(って言ったけど、何の気ありにドアーのほうを見ることなんて、あるのかしら?)、思わずはっとした。

    「……ねえ、真魚ちゃん」

    「なに? みどりちゃん」

    「あのね、みどり、ちょっと怖いこと思いついたんだけど」

    「怖いこと……えー、なんだろう」

    「もしかするとリボンちゃんは自我をもってるんじゃないかしら」

    「自我?」

    「そう、そろそろ使ってほしいな、ハンカチとしてのお仕事をさせてほしいな、っていう抑圧がたまって、ついに犯行に出た――」

    そう言ってみどり、おそるおそる、という感じで、今日真魚ちゃんが着ていく予定のコートのポケットのあたりを指差す。真魚ちゃんの視線がゆっくりと動く。

    「あっ!」

    真魚ちゃんが小さく叫びをあげる。

    「そうだった! コートのポケットに昨日入れておいたんだった! わー、ごめんみどりちゃん!!」

    「ううん、ぜんぜん! 見つかってよかったね、真魚ちゃん!」

    そういうわけで、若干の紆余曲折は経たものの、わたしたちはコートを着て、七時二十分からの映画を目指し、無事、家を出ることができたのだった。ふたりとも、万全におしゃれをして。

    映画館への道すがら、ふと真魚ちゃんがこんなことを言った。

    「みどりちゃんは天才ね」

    「天才!? ええ! 何言ってるの、真魚ちゃん」

    真魚ちゃんは軽く首を振ると、にっこり笑う。

    「いつもありがとう、みどりちゃん」