――陽くんはほんとうにおりこうさんだね。
そう言うと、八月朔日先生は、おれの頭をやさしく二回なでました。一瞬何を言われたのか、自分が何をされたのかわからず、おれは上目づかいになって先生を見ます。けれども、先生は、さっきおれに英語を教えていたときと変わらない、おだやかなほほ笑みを浮かべたままです。おれはなでられた頭に、自分の手でも触れてみます。もちろん、どう触れてみても、おれが中学二年生の男であるという事実は変わりません。確かにおれは、いまだに身長が一五〇センチちょっとしかありませんが、しかし、「おりこうさん」と呼ばれるには、いささか薹が立ちすぎていることは否めないでしょう。
――おりこうさん、って、どういうことですか。
けれども、おれは口をとがらせてそう反駁したりはしませんでした。先生にけむに巻かれることがわかっていたから、ではありません。けむりを出しているのが、すなわち、薪のくべられた炎であるのが、自分である、という事実に気がついたからです。平たく言うのなら? おれはようやく気が付いたのでした。自分が恋に落ちたのだということを。
――じゃあ、陽くん。第一志望校合格、あらためておめでとう。ぼくはこれで……。
――先生。
おれは、ピーコートに手を伸ばしかけた先生に声をかけます。ん? というように、先生はおれのほうを振り向きます。
――……あの、えっと。
先生が家庭教師をしてくれるのも、今日でおしまい。この日のために、おれは入念にことばを用意していたはずでした。けれども、ことばというのは、概してかくれんぼが好きなものです。そうして、このときも例外でなく、おれの目の前からは消え失せていました。なにか、なんでもいいから言わなくちゃ。とにかく先生に告白しなきゃ。そう思いはするのですが――。
と、先生がふいにおれのほうに手を伸ばしてきました。おれは、先生が、自分のことを抱きしめるんじゃないかと思い、思わずびくりと身をふるわせます。けれども、先生は、おれをスルーして、机のうえのなにかをつかみます。
――ああ、これはぼくの万年筆だね。ありがとう、大切なひとにもらったものなんだ。
大切なひと。そのことばがおれの心にずんとのしかかります。恋人ですか、だなんて、もちろんそんなことを尋けるはずはありません。万年筆を胸ポケットにしまうと、先生はいつものほほえみを浮かべ、握手を求めるかたちに手を差し出しながら、ぼくにこう云いました。
――陽くんはほんとうにおりこうさんだなあ。
――先生は、いつまでおれを子供のままにしておくつもりですか?
おれの口をとっさについて出たのは、「愛の告白」などといううつくしいものではなく、こんな慳貪なことばでした。先生は手を差し出したまま、意味がよくわからない、とでも云うように、小首をかしげて見せます。その動作があんまりに無垢に見えて、ひるがえって自分はあんまりに汚れて感じられて、そのやるせなさが、おれの堰を切りました。
――先生、気づいてますか。おれ、もう先生より大きいんですよ、身長。野球部だから、肩の力もある。先生を押し倒すこと、なんて……。
云いながら、おれは自分がみるみるうちに自信を失くしていくのを感じました。おれは一度口を閉じます。けれども、口を閉じたところで、一度だれかの耳に届いたことばを、脳味噌から取り除くことはできません。沈黙がふたりのあいだを流れます。おれは、先生の無言さに悴んだように、ほとんど震えながら、ようやく最後にこう言いました。
――……おりこうさんじゃないおれは、先生にとって、価値はないですか?
おれはうなだれます。ソックスを履いたつまさきに熱いものがこぼれ落ちるのを待つまでもなく、自分の眼から涙が流れていることはわかりました。にじんだ視界のなかで、先生の手がようやくひっこめられるのが見えます。それから、スラックスのポケットをまさぐり、くしゃくしゃの紙をおれに差し出すのが。
おれに差し出す?
おれが顔を上げると、先生は、その手から、くしゃくしゃの紙を離しました。あわてておれは手を伸ばし、それをキャッチします。おれの頭のうえから先生の声が聞こえます。
――ぼくのマンションの住所。誰にも言わずに、ひとりでくることはできるかい?
手の中をまじまじと、おれは見つめます。くしゃくしゃの紙には、いっさい乱れのない先生の文字が、地図記号のような正しさでならんでいます。おれはぶんぶんと点頭しました。点頭しながら、ふと――こんな思いつきがおれのこころに去来します。
自分はなにか、とんでもなくひどいことをされるのかもしれない。
一生消えないような傷を、体に、心に負わされるのかもしれない。
もし、そんなことになったら、おれは――。
そんなおれの迷いや不安を打ち砕いたのは、先生の、くすり、という笑い声でした。はっとして、おれは顔をあげ、上目づかいで先生を見ます。けれども、先生は、いつものようにおだやかなほほ笑みを浮かべたままです。おれはなでられた頭に、自分の手でも触れてみます。「なでられた?」 いいえ、先生は一年前とは違い、おれの頭をなでたりしませんでした。「一年前とは違い」? 呆然としているおれの目の前で先生が、おもむろに口を開きます。
――陽くんはほんとうに、おりこうさんだね。
ぽつり、と雨が頰を打った気が一瞬した。俺は頰を拭ってみるけれども、拳に濡れた痕跡は触れることがない。気のせいだったのか、消えてしまったのか――しかし、台風が近づいている気配は、まぎれもなく感じられる。からっぽの寸胴鍋の中に街ごと閉じ込められたように、吹きつけては何かにぶつかる風の音が強まっている。雲がまるで巨大な掌に思いっきり押されているように、ぐんぐんぐんぐん流れていく。こんな日に、市営プールに泳ぎに来るもの好きは、なるほど、いないだろうし、いたとしても、「台風のため本日閉鎖しております」の看板を見て舌打ちして引き返さなければ、ただの不法侵入者だ。
プールサイドで拾った枯葉を、俺は手の中で握りつぶした。葉脈を残して、かさかさに砕ける感触が手の中でする。枝についている葉は、握りつぶしてもこんふうになったりしない。みずみずしいとはそういうことで、そうしてそれは人間もきっとおんなじだ。体内の七十パーセントの水が、抱きしめられてもかさかさに砕けないように愛に餓えた獣たちを守ってくれる。
ちゃぽんちゃぽん、と、水面が揺れて、プールサイドに波打ち際をつくる。俺は誰もいないプールに向かって目を細めてみる。思えば、こんなに水でいっぱいのプールをまじまじと見るのははじめてかもしれない。否、いつも水でいっぱいはいっぱいなのだけれども、それ以上にプールは人でぎゅう詰めである。ふだんはシフトが、十二時から十五時と短時間であることも関係しているだろうが。だからこんな、水だけの、水で満たされてるだけの感じのプールを見ることはない。なんだかこのしずかさは、不思議と俺の背骨の下のほうををそわそわとさせた。
俺は第三レーンの飛び込み台の上に立ち、腰に手を当ててぐるりと水でいっぱいのプールを見回す。ふと、こんなところで泳いだらさっぱりするだろうな、という悪魔のささやきが聞こえる。俺は苦笑する。とはつまり、今の俺には「さっぱりさせたいことがある」、ということだが。
……きのう俺は同じゼミの男子に告白された。人好きのする、だけれどもものしずかなところのある秀才タイプで、俺とは正反対のタイプ。それこそ、台風の目のようなところのあるやつ。だけれども、俺のことを一年のときからずっと見ていて、ずっと好きだったという。
そのとき率直に言って、俺はもったいないな、と思った。彼が同性愛者であることに対してではもちろんなく、俺なんかを好きになったことに対してでは少しあるかもしれないが――具体的に言うなら、こうだ。そんな、いつもなら他人には絶対に見せないような無防備に赤く染まった頰を俺に見せるだなんて、なんて、もったいない。俺、図に乗っちゃうじゃないか。しかし、図に乗るとはどういうことだろう? 俺は自分を同性愛者や両性愛者だと思ったことは、これまでなかったのに。
――位置について。
頭のなかでそんな声がする。その声のままに俺は飛び込み台に手をつく。
――よーい。
俺はちらりと前方を見る。水でいっぱいのプール。これは徒競走の合図で、水泳は違った気もするな、とも思う。でも、頭のなかの声に文句を言ったって仕方がない。
――スタート!
その声を皮切りに、俺は水中に飛び込んだ。
クロールをしていると、ときどき見たこともない景色が見える。見たこともない――いや、それは大げさかもしれない。息継ぎのタイミングで見える、そこに確かにあったのだけれども、そんな角度で見たことがなく、いままで気づくことのなかった景色。俺は必死でバタ足をして、両手を掻いていく。思考がおいつかないスピードで。感覚だけを研ぎ澄ますようなスピードで。隣のレーンにはむろん誰もいない。これはあくまで、自分との闘い。あるいは、自分に対する決着。時間にして、三十秒もかからない。ゴーグル越しに見える世界の果てに、俺は手をついた。
俺は水面から顔を出し、ゆっくりと振り返る。プールが波打っているのは俺が泳いだせいか、近づいている台風のせいか。
それとも、俺の心が、確かに清く波打っているせいか。
プールサイドに上がると、俺はゴーグルを外し、タオルで体を拭きながら、くっくっくっと笑った。そうして空を見上げた。ぽつり、と今度こそ確かな雨がひとつぶやってきて、俺のまつげを打つ。早く更衣室に戻らなくてはならない。早く更衣室に戻って、きのう交換したばかりのLINEのアドレスに、「俺もきみのこと、好きになったみたい」と伝えなきゃ。
「死は汚い。」と文月は言った。ここでの『汚い』は『ずるい』の意味ではなく、文字通り『汚れた』の意味であることを付言した文月は、しかしその根拠まで明言することはなかった。無神論者の哲学者が言うくらいなのだから、その『汚れ』は、おそらく塩を撒くこととの間には懸隔があったろうに、ぼくはあの日、その『秘密』を知ることはできなかった。
あの日、曇り空はどんな天使の喇叭をかき鳴らしても割ることが出来なさそうなほど低く暗く垂れこめていて、なのに文月の顔は、どこから光を集めて来たのか、圧倒的な眩さに満ちていた。ぼくは思わず眉をひそめそうになった。文月の発言を不謹慎と思っているのだと誤解をされかねないことの心外さから、結局そうはしなかったけれども。
もしおれがお前より先に死んだら一篇の詩を書いてほしい。そう文月は膝を払いながら言った。だから、「死は汚い。」と言った時、文月は、膝を土についていたのだと思う。なのにぼくは、ぼくたちがどこでその会話をしていたのだか、不思議なことだろうか、どうしても思い出せない。「詩?」と尋ねかえす時に、自分の口元が慄くように歪み、少し甘えたような媚を含んだ笑いの調子を帯びたこと、その媚に応じるように、文月が真率な調子を崩した――崩してしまったという事実には、今となっては後悔の念が湧き起こる。「おう、詩だよ、お前なら書けるだろ。」「書けねえよ。」いよいよぼくは笑って、文月も答えるように笑って、二人分の笑いの渦は大きく、先程彼が発した毅然とした命題も呑み込み、ぐずぐずに壊れて溶けてしまった。愛はいつだって地球を救うとは思っていなくても、笑いはいつだって二人を助けると思っていた浅はかさは、若さゆえのものと片付けてしまうには苦々しいものだ。
……あれから何年経ったのか。正確に指折り数えるべきなのか、それとももっとぼんやりとしているべきなのか。詳細は与り知らぬけれども、文月は揉め事を起こして事実上学界から追放されたらしい。ぼくは運よく手掛けた小説が純文学の登竜門と呼ばれる賞を受け、そのまま筆で糊口を凌いでいる。行きがかり上、お互いに、罵詈讒謗を吐くのは知り合った頃よりだいぶ上手くなっていた。一頻り人を腐しあったあと、ふとお互いに見つめ合い、見透かし合い、今度は上手くなっていない方の言葉遣いを、意味が通じる程度になんとか組み合わせて、二人で暮らしはじめた、そんな矢先のことだった。
「おう、詩だよ、お前なら書けるだろ。」「書けるよ。」ぼくは小さくつぶやくと、サインペンを鞄から取り出して、破りとった手帳に書きつける。
『文月大地 享年三五』
これほど端的で、これほど美しく、これほど胸を打つ詩はないだろう。ぼくは文月の反応を伺おうと、そっと顔を覆っている白い布をめくってみる。「死は汚い。」「どこがだよ。」深い悲しみの中で、ぼくは砂を詰められた花瓶のように苦笑した。文月の顔は、どこから光を集めて来たのか、圧倒的な眩さに満ちていた。