• 小説

    水でいっぱいのプール

    ぽつり、と雨が頰を打った気が一瞬した。俺は頰を拭ってみるけれども、拳に濡れた痕跡は触れることがない。気のせいだったのか、消えてしまったのか――しかし、台風が近づいている気配は、まぎれもなく感じられる。からっぽの寸胴鍋の中に街ごと閉じ込められたように、吹きつけては何かにぶつかる風の音が強まっている。雲がまるで巨大な掌に思いっきり押されているように、ぐんぐんぐんぐん流れていく。こんな日に、市営プールに泳ぎに来るもの好きは、なるほど、いないだろうし、いたとしても、「台風のため本日閉鎖しております」の看板を見て舌打ちして引き返さなければ、ただの不法侵入者だ。

    プールサイドで拾った枯葉を、俺は手の中で握りつぶした。葉脈を残して、かさかさに砕ける感触が手の中でする。枝についている葉は、握りつぶしてもこんふうになったりしない。みずみずしいとはそういうことで、そうしてそれは人間もきっとおんなじだ。体内の七十パーセントの水が、抱きしめられてもかさかさに砕けないように愛に餓えた獣たちを守ってくれる。

    ちゃぽんちゃぽん、と、水面が揺れて、プールサイドに波打ち際をつくる。俺は誰もいないプールに向かって目を細めてみる。思えば、こんなに水でいっぱいのプールをまじまじと見るのははじめてかもしれない。否、いつも水でいっぱいはいっぱいなのだけれども、それ以上にプールは人でぎゅう詰めである。ふだんはシフトが、十二時から十五時と短時間であることも関係しているだろうが。だからこんな、水だけの、水で満たされてるだけの感じのプールを見ることはない。なんだかこのしずかさは、不思議と俺の背骨の下のほうををそわそわとさせた。

    俺は第三レーンの飛び込み台の上に立ち、腰に手を当ててぐるりと水でいっぱいのプールを見回す。ふと、こんなところで泳いだらさっぱりするだろうな、という悪魔のささやきが聞こえる。俺は苦笑する。とはつまり、今の俺には「さっぱりさせたいことがある」、ということだが。

    ……きのう俺は同じゼミの男子に告白された。人好きのする、だけれどもものしずかなところのある秀才タイプで、俺とは正反対のタイプ。それこそ、台風の目のようなところのあるやつ。だけれども、俺のことを一年のときからずっと見ていて、ずっと好きだったという。

    そのとき率直に言って、俺はもったいないな、と思った。彼が同性愛者であることに対してではもちろんなく、俺なんかを好きになったことに対してでは少しあるかもしれないが――具体的に言うなら、こうだ。そんな、いつもなら他人には絶対に見せないような無防備に赤く染まった頰を俺に見せるだなんて、なんて、もったいない。俺、図に乗っちゃうじゃないか。しかし、図に乗るとはどういうことだろう? 俺は自分を同性愛者や両性愛者だと思ったことは、これまでなかったのに。

    ――位置について。

    頭のなかでそんな声がする。その声のままに俺は飛び込み台に手をつく。

    ――よーい。

    俺はちらりと前方を見る。水でいっぱいのプール。これは徒競走の合図で、水泳は違った気もするな、とも思う。でも、頭のなかの声に文句を言ったって仕方がない。

    ――スタート!

    その声を皮切りに、俺は水中に飛び込んだ。

    クロールをしていると、ときどき見たこともない景色が見える。見たこともない――いや、それは大げさかもしれない。息継ぎのタイミングで見える、そこに確かにあったのだけれども、そんな角度で見たことがなく、いままで気づくことのなかった景色。俺は必死でバタ足をして、両手を掻いていく。思考がおいつかないスピードで。感覚だけを研ぎ澄ますようなスピードで。隣のレーンにはむろん誰もいない。これはあくまで、自分との闘い。あるいは、自分に対する決着。時間にして、三十秒もかからない。ゴーグル越しに見える世界の果てに、俺は手をついた。

    俺は水面から顔を出し、ゆっくりと振り返る。プールが波打っているのは俺が泳いだせいか、近づいている台風のせいか。

    それとも、俺の心が、確かに清く波打っているせいか。

    プールサイドに上がると、俺はゴーグルを外し、タオルで体を拭きながら、くっくっくっと笑った。そうして空を見上げた。ぽつり、と今度こそ確かな雨がひとつぶやってきて、俺のまつげを打つ。早く更衣室に戻らなくてはならない。早く更衣室に戻って、きのう交換したばかりのLINEのアドレスに、「俺もきみのこと、好きになったみたい」と伝えなきゃ。

  • 書籍/電子書籍

    ROQUESQUE 003

    その湖の底には、金や銀をはじめとする巨万の財宝が眠っているというもっぱらの噂であった。あくまでそれが「噂」であり、真偽を確かめたものがいないのは、湖は女神の加護を受けていて、やすやすと立ち入ることができないからである。けれども、抜け道がないわけではないのかもしれない。男はごくりと唾を飲み込むと、手にしていた斧を湖に放り投げ、背中に装備していた剣をそっと抜き取る。あなたが落としたのは金の斧ですか、それとも銀の斧ですか。ほどなく女神が現れて、男にそう尋ねるだろう。その頸を、斬り落とす。

    「ROQUESQUE 003」

    収録作品

    • 「ROQUESQUE」シリーズ0041~0060

    販売サイト

    初版発行日

    • PDF:2020年9月16日
    • mobi:2020年9月16日
    • 書籍(文庫):2020年9月16日

    頁数

    • PDF:25p
    • 書籍(文庫):中綴じ/28p(表紙回り4p含む)

    発行元

    • PDF:6e
    • mobi:6e
    • 書籍(文庫):6e

    備考

    • 超短編

  • 論考

    遠野遥「破局」論――「父親的なるもの」を希求するテクストとしての「破局」

    陽介は作中において少なくとも二度、子供の注視を受ける。一度目は、〈泣きながら「本が、本が」と叫んでい〉る子供の、二度目は、〈タクシー〉に轢かれそうになった子供の注視である。

    両者のシチュエーションを整理すると、子供の注視を集めている以外に、もうひとつの通底する特徴があることがすぐに了解されることだろう。すなわち、子供はひとりでいたわけではなく、「父親とおぼしき人物」とともにいて、「スカートを履いた子供」と描写されている、ということだ。ここに母親は出てこず、また、子供についても「スカートを履いた女の子」とは記述されない。後者については、「破局」の作者である遠野がデビュー作の「改良」で「女性の格好をする男性」を描いたことを踏まえると贅言を費やすまでもないように思われるが、母親の不在、という点についてはいささか着目の余地があると思われる。理由としては、麻衣子が幼いころ陽介によく似た相貌を持つ侵入者と出会したのも、母親の不在時だったからである。そうしてまた、陽介が自身の父親について言及する箇所はあっても、母親について言及する箇所はない。詳細な考察は別の機会に譲るとしても、「母の不在」は、「破局」を特徴づける要素であると言っていいのかもしれない。

    さて、この父親と子供であるが、その様子は外見的にも、そうしておそらく気質的にもあまり似ていないといってよい。しかし、両者のあいだに少なくともひとつは共通項をあげることができる。何か、といえば、「父親と子供が歩くときは手を繫いでいる」という共通点である。

    ①子供は黒いスカートを穿き、男と手を繫いでいた。
    ②子供はその間、意見を求めるように私の顔をじっと見ていたが、やがて男に手を引かれて再び歩き出した。

    共通点が少ないぶん、「破局」における「父親的なるもの」「子供的なるもの」の関係は、この「子供を誘導するために手を繫ぐ」という場面に、いわば凝縮していると言ってよいだろう。

    ところで、これによく似た動作が出てくる箇所がある。麻衣子が陽介の元を深夜訪れる場面である。

    麻衣子が私の手を取り、廊下の奥へ引っ張っていった。灯をつけていない家の中は、ほぼ真っ暗と言ってよかった。でも麻衣子は一切ためらうことなく廊下を歩いた。

    特に先の引用②と比較すると、子供の意志を振り切るようにその手をつかみ陽介にとってどこへともしれないところへつれていく父親らしき人物と、陽介の意志など我関せずというようにその手を取り真っ暗な場所を突き進んでいく麻衣子のあいだには奇妙なほどの類似が見受けられると言ってよい。

    これを踏まえると、ひとつの仮説を簡単に立てることができるだろう。すなわち、麻衣子がこの場面では「父親的なるもの」として、そうして陽介が「子供的なるもの」として造形されているのではないか、という仮説だ。そうして、この仮説に基づくと、陽介がさしたる抵抗もせず、麻衣子と性行為に及んだ理由も簡単に説明がつく。陽介は、父親の〈思い出はほとんどない〉と言いながら、〈女性には優しくしろ、と口癖のように言っていたのだけはよく覚えてい〉て、そうしてその理由もわからないままそれを遵守しつづけている。陽介は、彼が知っている唯一といっていい「父親的なるもの」に、おどろくほどに従順であるのだ。つまり、この場面で麻衣子がいかにも父親的なふるまいに及んだから、陽介は抵抗の意志を失ったのだ、というふうな脈絡を立てることが可能になってくるのである。

    また、麻衣子が陽介の〈胸に顔をうずめた〉とき、陽介の〈心臓に向けて語りかけるように喋った〉ことも、陽介が麻衣子に絆された一因としては考慮にいれるべきである。陽介は灯が自身の〈性器とおしゃべりをすること〉に対し、〈仲間外れにされているよう〉な気持ちを覚えている。これに対し、〈心臓に向けて語りかけるように〉とは、まさに陽介を陽介たらしめる部分について語りかけているのと同義だからである。

    さらにもう一点、〈麻衣子が私の手を取り、廊下の奥へ引っ張ってい〉く直前の、〈陽介くん、汗のにおいがするね〉という台詞についても言及しておきたい。陽介は、自身のにおいに敏感であり、佐々木の家につくと真っ先にシャワーを借り、〈体が臭うと周囲の人間にも迷惑がかかる〉と言っている。そんな陽介が、かつての恋人に〈汗のにおい〉を指摘され、はたしてなんとも思わなかったということがあるだろうか。作中に具体的な文言は出てこないためあくまで仮説にとどまるが、この言葉によって陽介は動揺し、幼い子供のように、麻衣子に〈廊下の奥へ引っ張ってい〉かれるような状況が現出した、と考えることもできる。

    さて、次に、麻衣子が過去、暴漢に追い回されたときのことを思い出しながら語っているときの、こんな記述を見てみよう。

    どういうわけか私の中には、お母さんが帰ってくるまでに家に戻らなきゃっていう、強い気持ちがあった。帰ってきて私がいなかったら、たぶんものすごく心配するだろうと思って。

    この心の動きは幾分不思議ではある。なぜ、というに、「お母さんが男と鉢合わせする」ということの剣呑さではなく、「私がいなかったらお母さんが心配する」ということについて、麻衣子の意識は占められているからである。これはただ単に、麻衣子がいかにも親から愛された子供であったことが拝察できる描写にすぎないのだろうか。

    ところが、これと似たような感情に、陽介がとらわれている箇所がある。男を殴って意識不明にしてしまい、それを見ていた〈晴れた日の空に似た色のワンピースを着ていた〉女を追いかけていたものの、〈もと来た道を、引き返そうと思っ〉た時である。その理由を、陽介はこう語る。

    私が動いてしまったら、灯が戻ってきたときに、私を見つけられないからだ。

    この感情は、麻衣子が幼い子供のころに感じたものと同質であると言っていい。すなわち陽介は、この場面できわめて「子供的なるもの」として造形されているのだ。

    男が落とした球が転がっていることに気づき、反射的にそれを拾い上げた。そして、胸の前で強く抱き締めた。本当なら灯を抱き締めたいが、灯は今ここにいないから、そのかわりだった。(筆者略)球は私の力をやわらかく受け止め、抱いているのは私であるのに、私は父親に抱かれているような安心を受け取った。

    陽介が、殴り倒した男が持っていた巨大なバッグからこぼれおちた球を拾い上げる部分である。ここで陽介ははっきりと、「母親に抱かれている」ではなく〈父親に抱かれている〉と書いている。ほんとうに切羽詰まったときに自分を助けてくれる存在として、陽介は、母親ではなく幼いころに失った父親を思い描いているのだ。父親的なるもの、をよく知らないぶん、父親的なるものが理想化されすぎている、と指摘するのはたやすい。しかし、身体的には「立派な男」であると言っていいだろう陽介が、「父親的なるもの」を体感としてよく知らないゆえに、「父親的なるもの」に縛られ、それを希求しつづけている、という構図は、イノセントであるぶん、かえって「破局」の核となる部分であるかもしれないのだ。

  • 小説

    短死系

    「死は汚い。」と文月は言った。ここでの『汚い』は『ずるい』の意味ではなく、文字通り『汚れた』の意味であることを付言した文月は、しかしその根拠まで明言することはなかった。無神論者の哲学者が言うくらいなのだから、その『汚れ』は、おそらく塩を撒くこととの間には懸隔があったろうに、ぼくはあの日、その『秘密』を知ることはできなかった。

    あの日、曇り空はどんな天使の喇叭をかき鳴らしても割ることが出来なさそうなほど低く暗く垂れこめていて、なのに文月の顔は、どこから光を集めて来たのか、圧倒的な眩さに満ちていた。ぼくは思わず眉をひそめそうになった。文月の発言を不謹慎と思っているのだと誤解をされかねないことの心外さから、結局そうはしなかったけれども。

    もしおれがお前より先に死んだら一篇の詩を書いてほしい。そう文月は膝を払いながら言った。だから、「死は汚い。」と言った時、文月は、膝を土についていたのだと思う。なのにぼくは、ぼくたちがどこでその会話をしていたのだか、不思議なことだろうか、どうしても思い出せない。「詩?」と尋ねかえす時に、自分の口元が慄くように歪み、少し甘えたような媚を含んだ笑いの調子を帯びたこと、その媚に応じるように、文月が真率な調子を崩した――崩してしまったという事実には、今となっては後悔の念が湧き起こる。「おう、詩だよ、お前なら書けるだろ。」「書けねえよ。」いよいよぼくは笑って、文月も答えるように笑って、二人分の笑いの渦は大きく、先程彼が発した毅然とした命題も呑み込み、ぐずぐずに壊れて溶けてしまった。愛はいつだって地球を救うとは思っていなくても、笑いはいつだって二人を助けると思っていた浅はかさは、若さゆえのものと片付けてしまうには苦々しいものだ。

    ……あれから何年経ったのか。正確に指折り数えるべきなのか、それとももっとぼんやりとしているべきなのか。詳細は与り知らぬけれども、文月は揉め事を起こして事実上学界から追放されたらしい。ぼくは運よく手掛けた小説が純文学の登竜門と呼ばれる賞を受け、そのまま筆で糊口を凌いでいる。行きがかり上、お互いに、罵詈讒謗を吐くのは知り合った頃よりだいぶ上手くなっていた。一頻り人を腐しあったあと、ふとお互いに見つめ合い、見透かし合い、今度は上手くなっていない方の言葉遣いを、意味が通じる程度になんとか組み合わせて、二人で暮らしはじめた、そんな矢先のことだった。

    「おう、詩だよ、お前なら書けるだろ。」「書けるよ。」ぼくは小さくつぶやくと、サインペンを鞄から取り出して、破りとった手帳に書きつける。

    『文月大地 享年三五』

    これほど端的で、これほど美しく、これほど胸を打つ詩はないだろう。ぼくは文月の反応を伺おうと、そっと顔を覆っている白い布をめくってみる。「死は汚い。」「どこがだよ。」深い悲しみの中で、ぼくは砂を詰められた花瓶のように苦笑した。文月の顔は、どこから光を集めて来たのか、圧倒的な眩さに満ちていた。