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    食器の方程式

    洗った食器を片づけることほど業腹なことは、「生活」の中にはない――とは言えないからこそ、わたしはためらっているのだ。洗濯物だってそう。自分のものではない髪の毛が自分の家の洗面台に散らばっていたりなんかしたら、わたしはきっと、怪獣みたいに炎を吐くことこそないけれど、かちんときてしまうだろう。

    ……なんだか水回りのたとえばかりになってしまったが、要するにわたしは、「業腹」とまではいかなくても、その一連の作業が、確かに「嫌い」ではあるのだ。ましてやそれを、他人のために行うとなると――。

    事の発端はこうだ。わたしの通う学部では、二年次からキャンパスが移転する。それも、一年次までのキャンパスとは、県境を跨ぎこすくらいには遠くに。当然のようにそれに伴うことといったら? そう、引っ越しだ。もちろん、両方のキャンパスの中間地点あたりに家を借りる、という手もあるが、その中間地点というのが、ちょうど、東京都中央区で言うのなら、銀座のあたりになってしまい、篦棒に賃料が高い。だいたい、電車に揺られる時間があるなら一分でも一秒でも長く、惰眠をすやすやむさぼりたい、というのが乙女心というものではないのか。

    「うーん、ここもダメ!」

    不動産屋さんからもらってきたチラシに、わたしは大きく赤ペンで×をつける。長谷川さんは、コタツ(わたしの部屋には一人暮らしの淑女の嗜みとして、コタツがある)の上にわたしがおいたチラシを手に取り、N字に目を走らせると、軽く首を傾げた。

    「良さそうだと思うけど?」

    「ベランダが北向きじゃない、この部屋」

    「あ、ほんとだ」

    「タオルとかはさ、やっぱり日のあたる場所に干したいんだよね、わたし的に。毎日使うものだし」

    「そうだねー。たしかに」

    長谷川さんは、クリアPP加工がされたチラシをていねいに半分に畳み、それからもう半分に畳むとゴミ箱に捨てる。それから、おせんべいを一枚取り上げ、

    「いまのところ、柏木さんのお眼鏡に適うところはないの?」

    そう言って、ぱりん、とおせんべいを齧る。

    「うーん、ないわけじゃなくて……」

    わたしはお茶を濁す。これは、慣用的な表現ではなく、煎茶をゆのみからすすったらお茶が文字通り濁った、の意味だ。お茶が透明になるのを待ち、わたしは答える。

    「一件、すごくいいとこがあったんだけど。ちょっとそこはひとりで住むには広くって。家賃がそのぶん高くなっちゃうし。どこかで妥協しなきゃならないんだけどね」

    「そうだよねー。妥協必要だよねー」

    長谷川さんは、おせんべいの最後のひとくちを口元に持って行きかけ、そうして、ふと、あ! と電球マーク型の声をふいにあげた。

    「じゃあさ、柏木さん、もしよかったら、だけど、みどりとルームシェアしない? じつはみどりも住む部屋まだ決めてなくて。みどり、あんまり住むとこにこだわりないから、北向きの部屋でも、事故物件でも、だいじょうぶだよー」

    「るーむ、しぇあ」

    鸚鵡返し、という言葉があるけれども、鸚鵡のように音調や抑揚もそっくりにことばを返せるのなら、じつはそれは大したものだろう。わたしは、言われたことの意味が即座にはよくつかめずに、あたかもカタカナのことばをひらがなにしたような返事をする。

    「もちろん無理にってわけじゃないけど、みどり、なんとなく柏木さんとなら、いっしょに暮らせるかなあって思って」

    「るーむ、しぇあ、かあ」

    そうして、わたしはコタツの上に置かれた急須とほとんど空になったふたつのゆのみを目に留めて、冒頭の思考へと立ち戻るのだった。

    そりゃあ長谷川さんはいい子だ。趣味も合うし、たぶん部屋の汚さ……おっと、きれいさも、おんなじくらいだ。でも、わたしが他者と暮らす? 人が使った食器を洗う? わたしが? そりゃあ、たまにならいいけれども、毎日まいにちそれを繰り返す?

    わたしに果たしてそれが出来るのだろうか?

    長谷川さんは、わたしが返事を躊躇しているのを気にとめている風情もなく、もう一枚おせんべいに手を伸ばし、お茶の最後のひとすすりまで飲み終え、

    「ごちそうさまでした。あー、日本茶おいしかった!」

    と両手を合わせた。

    「いえいえ、お粗末さまでした」

    わたしがゆのみを二つもって立ち上がりかけると、

    「あ、柏木さんは座ってて」

    そう言いざまに、長谷川さんはわたしの手からゆのみを取り上げた。

    「え?」

    「洗い物はみどりがやるから」

    そう言うと、長谷川さんは、キッチンに向かい、水道のバルブをひねり、水洗いをはじめる。そんな長谷川さんの鼻歌を聴きながら、わたしの手のなかから消えたゆのみをじっと見つめる。

    ああ、そうか。わたし、だれかと共同生活したら、自分のやらなきゃならないことが二倍になると思ってた。でも、長谷川さんは、きっとわたしのやらなきゃいけないことを、二倍にしたりはしない子だ。それどころか、きっと、半分にしてくれる、そんな子だ。

    柏木さん、スポンジはどれ使えばいいー? と尋ねてくる長谷川さんに、わたしは、オレンジと黄色のやつ使ってくれるー、とコタツに座ったまま返事をする。うん、わたし、彼女とならやっていけそう。そう思いながら、わたしは、クリアファイルに挟みコタツの天板の下に隠してあった「とっておきの物件」のチラシを取り出した。

  • 書籍/電子書籍

    猫灰だらけ+

    身長百七十六センチで髭も剃らないままに立つときは郎。ただの郎。きちんと髭をあたり、つけまつげをつけてマスカラをいっぱいに塗ったときは、多少盛った言い方をしてもまりあ。けれども、ひとたび彼女がメイクを終え、おおきく開いた襟ぐりにドレープのたっぷりついたセルリアンブルーの衣装を身につけ、肩甲骨同士をキスさせるような挙措をとるときは、彼女は確かにまりあ・ゴールドだった。けれども、幼馴染のわたしの前ではそこまでではない。せいぜい、まりあ・シルバーと言ったところか。

    「猫灰だらけ」

    収録作品

    • 猫灰だらけ
    • まりあ・ゴールドの見事なお茶会
    • ああついてない、ついてない女
    • 桃色の鵞鳥
    • なみだ星、泥の花。
    • ゾーズ・アー・クール・ピクス!
    • さぎょいぷなう
    • スカートの上のアップルパイ
    • 上昇のない墜落はない
    • #MeToo
    • くだらない薔薇
    • 猫灰だらけ+

    販売サイト

    初版発行日

    • PDF:2020年5月7日
    • mobi:2020年2月5日
    • 書籍(文庫):2020年4月23日

    頁数

    • PDF:84p
    • 書籍(文庫):92p(表紙回り4p含む)

    発行元

    • PDF:6e
    • mobi:6e
    • 書籍(文庫):6e

    備考