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    洋菓子と秘密の共有

    わたしたちは待ちきれなかった。珈琲機のなかでお湯が沸騰する、その瞬間を。棚のいちばん高いところにしまってある秘められた色の水仙があしらわれた美しい食器を背伸びして取り、テーブルのうえに銀器とともに並べる、その他愛のないひと手間を。アパートのドアーを開け、踊り疲れたくつを脱ぎ捨てる、そんなことすらももどかしく思えた。ここは目白、緑がまるで、乙女の清らかな手によって――乙女というものが、この世界にまだ健在するとしての話だが――ていねいに磨き抜かれたような五月、駅前のソリッドなベンチ――というか、平たく言うのなら直方体の石――のうえに、わたしたちは腰をおろしている。

    世の中のお菓子を用途で分類するのなら、たとえば、こういうのもありなのではないか。たとえば――歩きながらもしゃもしゃ食べうるものと、お家に帰ってしっぽり頂くものと。けれども、わたしたちは待ちきれなかった。百円ショップを見つけたわたしたちは、どちらからともなく示し合わせたように首を縦に振り、プラスチックのフォークを求めた。お洒落な街で、血眼になって座れる場所を探した。そうしていよいよ、紙でできた扉を開くときが来る。

    お客様を、わたしたちは鄭重に取り扱った。スマホで写真を撮り、インスタにアップした。お客様の絶妙にコーディネートされた衣装に、わたしたちは改めて息を呑んだ。素敵だね、と言い合ったわたしたちには、少しお互いを探るような感じがあったかかもしれない。たぶんわたしたちは、すぐにそのことに気が付いた。

    「じゃあ、食べようか」

    みどりちゃんが言う。パッケージからフォークを取り出しながら、わたしは言う。

    「うん」

    はじめはゆっくりと、それから徐々に性急に、わたしたちはケーキにフォークを突き付けた。もちろん、フォークに突き付けたあとには口に運んだ。わたしたちは焦っていた。わたしたちは、通行人の視線も気にならなかったわけではないと思う。わたしたちは、クリームが口元につくたびに、指先でそれを拭って、またすぐにケーキにとりかかった。そういう意味で、わたしたちは非常に勤勉だった。

    「こんなかっこう、ママに見せられないね」

    「うん」

    わたしは頷く。口に含んだ瞬間に上品なバナナが香り立つカスタードクリームを、わたしは培養皿シャーレになったつもりで受け止めた。ケーキが上品であればあるほどに、おいしいものであればあるほどに、わたしのなかで、アンバランスすれすれに募っていく思いがあった。わたしたちのあいだの秘密。わたしたちのかかえる背徳感。たぶんそれは、すごくすごく大事なもの。いまはまだ使えない、というか、使おうとしても意味のないものだけれど、いつかそれはきっと、思い出という国に立ち入るためのパスポートになる。

    「……おいしい」

    その一言をみどりちゃんが 口にしたのは、タイミング的にはかなり遅かった。なにせケーキというケーキが、あらかたわたしたちの目の前から、忽然と姿を消したあとだった。でも、そのズレが、歪み真珠的に輝くのを、わたしはしっかりと目のあたりにした。わたしは、いつもならやすやすとする同意を、今日は示さなかった。だって、そうじゃない? 神聖なものにぶつかってしまったら、骨や筋肉を動かすどころじゃないもの。

    そうしてわたしは、満を持してやってきた最後のひとくちをじっくりと味わうこととなった。決して開かれることのない封蠟によって閉ざされた手紙のような、砂糖細工の永遠を、そのときわたしは希求した。もちろんそれには、あと一歩のところで届かないことを知っていて。

    まっしろな沈黙。その気配に慄然としそうになる前に、

    「ごちそうさまでした」

    この世の中でもっとも使われているのにちっとも古びない、便利なエンドマークのひとつを、わたしは口にした。なぜなら、わたしたちには、回帰せねばならない場所があったからだ。けれどもまだ――わたしは、エンドマークのそのあとに、みどりちゃんが折りたたむようにして潰した、ケーキの入っていた紙の箱を、とても綺麗だと思ってしまったから。