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    ひらがなのふたり

    男の二人暮らしになんて、カラフルな爪楊枝は必要ないだろう。そう思ったゆきは、ちょっとだけ眉間に皺を寄せると、結局のところそれを、買い物かごのなかに抛り込んだ。なんと言ってもさなたはきっとこういうものが好きだろうし。前歯をせせるのにはいささかお上品にすぎるが、そもそもゆきやさなたの年代だと、そんなものは使わないか、使うとしても類似の高性能品(デンタルフロス)である。チーズとか、たこさんウインナーとか、ミートボールとかに「むだに」(とはもちろんゆきの思惑)刺して使う。そんな「むだ」にこころを配るのは、なんと言っても、ゆきが、さなたの喜ぶ顔が好きだから――などという言い方は、いささか簡にして要を得ていない。そうであるからこその「眉間の皺」である。
    「爪楊枝の色」

    収録作品

    • ひらがなのふたり
      • 爪楊枝の色
      • 麻婆飯
      • ひらがなのふたり
      • 大判焼小路
      • 桜の下で男(もしくは男)
      • お茶を淹れる
      • 未開の大地
      • 春巻きの皮(すなわち、揚げるまえに包むもの)
      • スパイスの誘惑
      • 気づいたら卵焼き
      • 平行線
      • オーロラソース
      • 古い油
      • 木べらと青春
      • WATCHING A MOVIE WITH SOME SNACKS
      • ゆきあらし
      • 突然炎のごとく
      • 霙花
      • 海・オンデマンド/花火・オンデマンド

    販売サイト

    初版発行日

    • PDF:2020年4月1日
    • mobi:2016年4月15日
    • 書籍(文庫):2017年4月9日

    頁数

    • PDF:82p
    • 書籍(文庫):86p(表紙回り4p含む)

    発行元

    • PDF:6e
    • mobi:6e
    • 書籍(文庫):6e

    備考

    • BL
    • 連作掌編集

  • 論考

    五彩の色の招待 ――泉鏡花「龍潭譚」論

    はじめに

    泉鏡花「龍潭譚」は、一八九六年十一月に「文芸倶楽部」に発表され、「躑躅か丘」「鎮守の社」「かくれあそび」「あふ魔が時」「大沼」「五位鷺」「九ツ谺」「渡船」「ふるさと」「千呪陀羅尼」の九章より構成される短編である。ふとしたことから異界に迷い込んだ千里が、亡母にも似た女性をそこで見出し、もとの世界(以下、本論では「現実」と記す)に戻ったのちもその追憶さめやらず、狂人扱いされるが、やがて千呪陀羅尼の加護を受け、心身ともに「現実」に定着する、というのが一般的な読解である。過去においては、母性とのかかわり(註1)やそれに伴う通過儀礼イニシエーション(註2)、柳田國男の諸作品との一致点(註3)などが研究上の問題として俎上に載せられてきた。

    本論でまず前提としたい問いかけは、そもそも、異界に迷い込むとはどういうことかということである。それは、現実と異界とのあいだに境界線が存在し、その線をまたぎこすことだろうか。一面ではその見方は正しいが、そこにはひとつ欠落している視座がある。すなわち、異界それ自体がときにひとを誘惑し、ひとを拉することがある、という点である。平たく言うならば、異界はただ口を開けて待っているのではなく、それ自身意志を有つかのように蠢き、積極的にひとびとをのみこもうとする、ということである。「神隠し」ということば自体が、神によって隠された=意志のある異界にのみこまれたというニュアンスを含む。本論では、これまで顧慮されることのなかったその見地に立つことで、「龍潭譚」という小説の読解において結果として等閑視されることになったテクストの深層で起こっている運動について考察を試みる。

    一 異界の出現と「現実」の抵抗

    「龍潭譚」における異界は、まず、一匹の虫の形をとってあらわれる。ハンミョウと呼ばれるこの虫は「道教え」とも呼ばれるものである。本文中では語り手〈われ〉でもある千里は、ハンミョウを発見したことにより、〈家路に帰らむ〉としていたこころがにわかに消え、この虫を追うことになる。これはすなわち、「家」に象徴される「現実」に目を背けることでもあり、異界の存在を視界の一隅に据えるという意味を担う。また、ここで、千里の運動は、ハンミョウに誘われるままのものとなり、つまり、自律的なものではなく、他律的なものに依存している。つまり、千里の与り知らない論理が、テクストにおいて、千里を動かす一本の柱となって機能しはじめている。これを踏まえると、単なる千里の行動ではなく、異物によって行動が惹起されるという事態こそが「龍潭譚」における、異界の先触れなのであると言える。このテクスト上の運動の一例を見ても、異界が、ただ単に従容として待ち受けているものではなく、積極的に千里を誘き寄せるものとして機能していることは疑いがない。

    千里がはじめて自身の体感によって違和感を、すなわち異界を察知するのは、「鎮守の社」において、〈頰のあたり先刻に毒蟲の触れたらむと覚ゆるが、しきりにかゆければ、袖もてひまなく擦りぬ〉という箇所である。ハンミョウという異界の意志との接触は、まずはかゆみという形で千里の身体を侵食し、その容貌の解体をはじめた。と同時に重要なのは、この違和感に対して、千里はまったく恐怖を抱いていないということである。異界はまだこの時点で、千里の身体の表面をまさぐることはできていても、内心に干渉するまでには至っていないと推察される。

    そこで異界は次の手に打って出る。すなわち、風景の造型である。

    一文字にかけのぼりて、唯見ればおなじ躑躅のだら/\おりなり。走りおりて走りのぼりつ。いつまでか恁てあらむ、こたびこそと思ふに違ひて、道はまた蜿れる坂なり。(引用者略)泣きながらひたばしりに走りたれど、なほ家ある処に至らず、坂も躑躅も少しもさきに異らずして、

    「変容しない世界」という「世界の変容」である。これは、千里を心細くさせ、異界が千里の内心をもいよいよ引き捕まえたかのように見える。しかしながら、千里の内心は、ふたたび〈もういゝよ、もういゝよ〉という〈隠れ遊び〉をする子供たちの声によって「現実」に引き戻される。この、登場後すぐに消えてしまう子供たちの正体は、異界の手先であると考えるのが妥当であるように思われる。が、この時点で重要なのは、千里が〈我がなかま〉という意識で彼らをとらえている点である。すなわち、千里の意識は、まだこの声を、千里とおなじ位相に属するもの、「現実」のものとして認識している。このことにより、千里の内心は、異界の侵入を斥け、異界はこの時点で、ふたたび現実の表層をすべるだけのものへと退行するのである。

    ハンミョウといういかにも子供好きのする姿の昆虫の登場から、その毒による容貌の変化、さらには延々とおなじ風景を見せつけるというのは、人間がなにかの目的に向かって走るのと同様な、一貫性のある歴然としたひとつの態度であり、「龍潭譚」冒頭における異界が、ことあるごとに千里を取り込もうとしている姿がありありとうかがえる。まだ幼く弱い千里は、そこに触れることはできても干渉することはできない。と同時に、最後に述べた千里が「現実」を意識し、半ば踏み込めかけていた異界から生還する場面は着目に値する。「龍潭譚」においては、冒頭から、異界の対抗勢力として、「現実」が強く機能していた、ということを示すものだからである。換言すれば「龍潭譚」の冒頭にあるのは、主人公である千里の思惑などを置き去りにした、千里を掠奪しようとする異界と千里をとどめようとする「現実」との意志と意志との拮抗である、と言える。

    二 異界へ請じ入れられる千里

    〈隠れ遊び〉をする子供たちの声によって、千里は境内に導かれる。境内とは、文字通り境界の内部であり、神聖な空間である。ここで千里は、〈かたゐ〉(筆者注・被差別者)の〈兒ども〉に〈お遊びな、一所にお遊びな。〉と〈せまりて勧め〉られる。

    かくれあそびの意義については、先行研究にてすでに考察がなされている(註4)ので、本論では、中谷克己の〈つまり、「かくれあそび」とは、他界に参入するための聖なる儀式として理解してよいだろう。「急に家に帰らむとはおもはず」という千里は「かたゐ」の子供たちの誘いに応じ、聖なる通過秘儀を受け入れるのである。〉という指摘を引用するにとどめる。中谷の〈聖なる通過秘儀〉という指摘には留保をつけなければならないが、〈隠れ遊び〉というもの自体が、このように、「現実」と異界をつなぐある種の通過点的な役割を担いうるものである、ということは踏まえておかねばなるまい。同時に、作品発表当時の文脈で読み解こうとするならば、ここにはひとつの非常なエネルギーをもつ坩堝がうまれると思料される。すなわち、神聖なる〈境内〉という空間のなかを自由に跳梁する〈かたゐ〉(=ケガレ)という構図である。聖とケガレが同時に渦巻くことにより、そこには当然、不安定に混淆した磁場が――「現実」の様相を混沌とさせるような磁場が――生まれると見なければならない。その混沌のなかから立ち上がるものは、「龍潭譚」というテクストにおいてはひとつしかない。つまり、〈隠れ遊び〉において隠喩的に行われるのは、表層的にのみ現実にあった異界の入り口が、儀式によって立体的に立ち上がるという運動にほかならない。

    さて、彼らの〈隠れ遊び〉に対して、千里は、〈友欲しき念の堪へがたかりし其心のまだ失せざると、恐しかりしあとの楽しきとに〉〈拒まずして頷〉く。つまりここで、千里は不安定に混淆した磁場に立入ることを、「自らの意志で」選択する。ここに着目しなければならないのは、千里の意志が介入することにより、千里をとどめるべきものとして存在していた「現実」が、千里という拠って立つべき接点を喪失し、急激な機能不全に陥っていくこととなるからである。

    つづく場面で、〈山の奥にも響くべく凄じき音して堂の扉〉が〈鎖〉される。管見では、この描写について解釈を施したものは見られなかったが、これは、「現実」と異界との境界に存する〈扉〉が、「現実」の激しい抵抗を受けながらも閉鎖され、幼い千里が、自力では帰還不可能になったことを示唆するものと見るべき、非常に重要な場面である。千里を庇護するものとして機能していた「現実」は、もはや千里に容喙することを許されない。

    このような「現実」の千里に対する働きかけは、死者の生者に対する働きかけと、非常に相似した形を描くと言ってよい。「龍潭譚」における死者とは、すなわち千里の母である。従来の研究では、九ツ谺の〈うつくしき人〉との関係、及び千里の姉との関係においてのみ、死者である母親は取りざたされ、結論にこそ異同はあるものの、その過程で明らかにされるのは、作中における母の圧倒的な「不在」であった。しかしながら、この「現実」の論理には、思慕される側の母親からの応答が、非常にささやかな反響であるとはいえ、あらわれていると看做すべきであろう。そのように考えることにより、〈われ〉という一人称によって語られながらも、「龍潭譚」になぜか内在しているポリフォニックな響きは、はっきりとした必然性を帯びてくる。

    三 異界の住人となる千里

    異界のとば口にわれを立たせた途端に、児どもたちは影も形もなくなる。代わりに登場するのは、一人の〈優しきこゑ〉をもつ〈丈高き女〉である。女は〈堂の前を左にめぐりて少しゆきたる突あたり〉にある〈小さき稲荷の社〉に千里を案内した途端にその姿を晦ます。子供と同様に、女は突然に登場し、そして消失する。千里が声に吸い寄せられるようにしてついていく、という意味でも、両者は一見よく似た場景を描いていると言ってよい。ただしそこには、検討の必要な差異がある。第一に、子供の消失のときは、われには、〈面を蔽〉うだけの暇はあったが、〈丈高き〉女の場合にはそれすらもない。つまり、こことどこか、パラフレーズするならば、「現実」と異界の、非人間的に自在な往還が、よりたやすく行われるようになっている。第二に、われは〈身の毛よだ〉たせている。〈身の毛〉が〈よだ〉つというのは身体的な表現であるが、同時にそれは、心理的な強烈な違和感をも指示する表現であることは言うまでもない。よく似たシーンであるだけに、異界が面的にいかに拡大したか、いかにたやすく異界が千里を取り巻くようになったかが、非常にあざやかなコントラストとして提示されている。

    そのコントラストがよりあざやかになるのは、すなわち、千里がより深く異界に踏み込むのは、千里が姉の声を聞く場面である。

    「ちさとや、ちさとや。」と坂下あたり、かなしげにわれを呼ぶは、姉上の声なりき。
    (引用者略)
    走りいでしが、あまりおそかりき。
    いかなればわれ姉上をまで怪みたる。
    悔ゆれど及ばず、かなたなる境内の鳥居のあたりまで追ひかけたれど、早やその姿は見えざりき。

    そもそも、千里にとって姉とは、〈いまだ家には遠しとみゆるに、忍びがたくも姉の顏なつかしく、しばらくも得堪へずなりたり〉という存在であった。〈家〉との距離をはかろうとするときに、姉とは絶対の指標として脳裡に浮かぶものだったのである。ところで、〈かたゐ〉の子供たちの声に千里は「現実」を発見し、異界の手から逃れることができた。しかしながら、本来「現実」をもっとも象徴すべき「家」を指し示す声に対して、此度は千里はまず〈怪〉む。すなわち、千里の認識により把握される世界における「現実」の比重と異界の比重が、逆転しているのである。換言すれば、これは、千里は「現実」より異界の論理を多く生きるものとして、「異界の住人」として生まれ変わったということである。

    それをもっとも端的に示すのが、以下にあげる場面であろう。

    手に掬ばむとしてうつむく時、思ひかけず見たるわが顔はそも/\いかなるものぞ。覚えず叫びしが心を籠めて、気を鎮めて、両の眼を拭ひ/\、水に臨む。
    われにもあらでまたとは見るに忍びぬを、いかでわれかゝるべき、必ず心の迷へるならむ、今こそ、今こそとわなゝきながら見直したる、肩をとらへて声ふるはし、
    「お、お、千里。えゝも、お前は。」と姉上ののたまふに、縋りつかまくみかへりたる、わが顔をみたまひしが、
    「あれ!」
    といひて一足すさりて、
    「違つてたよ、坊や。」とのみいひずてに衝と馳せ去りたまへり。

    ここで姉は千里を千里と認識できない。のみならず、〈『あれ!』/といひて一足すさりて〉というように、千里を禁忌のように忌避する様子すらうかがえる。この二点を踏まえると、テクストにおいてこの場面が果たす機能は、千里を〈日常圏から完全に遮断する〉(註5)というよりは、もはや千里は、日常からとっくに断絶した異界の住人となっており、姉とは異なる位相に存在していることを示すというものである、と言える。

    四 再構築される〈女〉、あるいはその禁忌性

    〈大沼とも覚しき〉ところにたどりついた千里は、そこに〈倒れ〉る。そうして、〈柔かき蒲団の上〉で目覚める、というのが「五位鷺」の冒頭である。目覚めたとき千里は、〈眼のふち清々しく、涼しき薫つよく薫〉るのを感じ、〈竹縁の障子あけ放〉すと、〈庭つゞきに向ひなる山懐に、緑の草の、ぬれ色青く生茂〉っているのを、〈筧の水むくくと湧きて玉ちるあたりに盥を据ゑて、うつくしく髪結うたる女の、身に一絲もかけで、むかうざまにひたりて居〉るのを見る。目覚めたばかりであるというのに千里は五感を総動員してあたりの風景をうかがい、さらにそのいずれもが、明瞭に機能しているところに特筆すべき点がある。黒一面に四方を取り囲まれ、自分がいる場所も〈大沼とも覚しき、、、〉(圏点筆者)と不明瞭にしか認識できていなかった「あふ魔が時」のラストと、これは、好対照をなすからである。その対照は、すなわち、異界の住人となって、「現実」に感応できなくなった千里と、みずみずしいまでに異界に感応している千里という対照をも示す。

    しかしながら、やがて千里は、異界のなかに、触れようとしても触れえない存在に気づく。千里のそばにいる〈女〉である。

    ふと其鼻頭をねらひて手をふれしに空を捻りて、うつくしき人は雛の如く顔の筋ひとつゆるみもせざりき。またその眼のふちをおしたれど水晶のなかなるものの形を取らむとするやう、わが顔はそのおくれげのはしに頰をなでらるゝまで近々とありながら、いかにしても指さきはその顔に届かざるに、はては心いれて、乳の下に面をふせて、強く額もて圧したるに、顔にはたゞあたゝかき霞のまとふとばかり、

    ここで着目すべきは、千里がくりかえしくりかえし〈女〉に触れようとしていること、〈雛の如く〉〈水晶のなかなるものの形を取らむとするよう〉〈あたたかき霞のまとふとばかり〉などと、自分の知っている感覚で、なんとしてでも〈女〉を表現しようとしていることである。触れられないからこそ、かえって千里は、自身の感覚に異界を浸透させようとさせようとし、異界の内奥へ内奥へと向かう、そんな運動がここにはある。

    この〈女〉については、〈死も性もけがれもないまぜにしているという場面が次々と続くことによって、聖なるもののすべてを備え、意味のうまれるみなもととしてのカオスの化身であることが示されていく。女の実体がつかめない、それゆえの求心的な呪縛の力はすっかり千里を魅了し、帰っていきたくない気持ちにさせられる〉という種田和加子の指摘がある(註6)。しかしながら、〈死〉〈性〉〈けがれ〉などは、芳川泰久の指摘(註7)からも敷衍できるように、あくまで〈女〉の〈表象〉であり、〈女〉の本質とは異なるのではないか。〈女〉が、〈淡雪の如く含むと舌にきえて触るゝものなく、すずしき唾のみぞあふれいでたる〉という状態を千里に味わわせたるために、千里に乳房を含ませたのだ、とは考えがたい。〈ぢつとしておいで、あんばいがわるいのだから、落着いて、ね、気をしづめるのだよ、可いかい〉と言う〈女〉にとって重要だったのは、その結果ではなく、働きかけることそれ自体であろう。このような、〈女〉の行動原理と、実際に起きた現象のあいだの齟齬を踏まえると、〈垂玉の乳房たゞ淡雪の如く含むと舌にきえ〉たのは、〈女〉の意志を、異界の意志が「無視した」結果だ、という推論は、きわめて蓋然性が高い。〈女〉がカオスの化身や〈霊視能力を持〉(註8)つ存在なのではない。むしろ、〈女〉は、自身の意志すらも自身の存在のありかたに反映させられないくらいに空虚な存在として造型されている、と言える。自身の意志の代わりに〈女〉に反映しているのは、ここでは、〈女〉と千里との接触を拒む異界の意志である。すなわち、異界がそこに属する〈女〉を、〈死〉であるように、〈性〉であるように、〈けがれ〉であるように、ときどきに書き換えているのだ。それゆえに千里は、あくまで母性の権現でありたがる〈女〉に対して、〈死〉すらも看取するようになる。そのような意味において、〈女〉は、異界の異界性がもっとも照射される存在として機能する。

    〈女〉と異界との関係を、如実にあらわす最たるものが、千里が眠っている〈女〉の上の〈守刀に手をかけ〉る場面である。その際千里は、〈女〉から血汐がほとばしったのを見る。あわてて手でおさえるが、〈おさへたるわが手には血の色〉がつかなかったことによって、〈こゝろづきて見定〉めたところ、その赤さは〈其膚にまとひたまひし紅の色〉であったというように理解する。

    従来、千里が見た血汐は、千里の幻視であるととらえるというような陥穽におちいっていた。しかしながらそれは、千里が、「現実」の論理に即して、自分が見たのは血汐であったのではなく〈膚にまとひたまひし紅の色〉であったという理解に落ち着いたのをなぞっているにすぎない。異界における千里の五感は、〈女〉に触れえないことをも含めて非常に明瞭であり、また、次項でも触れるが、〈女〉は千里の精緻な観察の対象であった。その〈女〉から、〈ほとばし〉るほどに激しい勢いであふれたものをただの誤認ととらえるのは、いささか無理があるのではないか。

    もう一点、忘れてはならないのは、九ツ谺に来てめざめたとたんに、姉にも見分けがつかないほどに変容していた千里の顔が、〈まるでかはつたやうにうつくしくなつた〉ことである。ハンミョウという異界の意志の一片によって醜くそのありようをひとたび書き換えられたものが、いともたやすくもとどおりに再構築されていることがわかる場面である。ここから、〈女〉から流れ出た血汐をなかったかのように書き換えることも、異界にとってはたやすいことであろう、という論理にまで推し進めることは、難しいことではない。

    これらを考慮にいれたとき、千里が守刀に手をかけたときに、血汐は確かに〈さとほとばし〉ったと考えるのが妥当である。そうして千里は、その血汐が〈した/\とながれにじむをあなやと両の拳もてしかとおさへ〉た。つまり、これまで触れえなかった〈女〉にここではじめて触れることがかなった。とりもなおさずそれは、異界の、いわば触れうべきではない深淵にここで触れてしまった、ということである。その事実は、血汐を〈其膚にまとひたまひし紅の色〉と看做したことにより、千里の認識の埒外に置かれる。けれども、聖痕として、確実に千里に刻まれている。異界から帰還した千里が、自身を見つめるときだけではなく、他者から見つめられるときにも異物としてとりあつかわれるのは、そうして、そのことに対して千里が激しい攻撃性をあらわにし、自身で自身をコントロールできなくなるのは、単に異界から帰ってきたから、というだけではなく、かくのごとくに、異界のしるしが刻印されてしまったからなのである。

    五 「龍潭譚」における〈うつくし〉いもの

    「龍潭譚」においては〈うつくし〉という表現が散見される。第一章の「躑躅か丘」においても、〈行く方も躑躅なり。来し方も躑躅なり。山土のいろもあかく見えたる、あまりうつくしさに恐しくなりて〉〈身はたゞ五彩の色を帯びて青みがちにかゞやきたる、うつくしさいはむ方なし。〉の二度、その表現は見られる。この時点で千里がうつくしいと思ったのは、〈山土のいろもあかく見えたる〉ほどの躑躅と〈五彩の色を帯びて青みが血にかがやくたる〉ハンミョウであり、つまり、そのうつくしさは、色彩的なものに限定されていることがわかる。審美の基準としてはきわめてシンプルなものである。

    もう一点看なければならないのは、千里のうつくしさに対する心の運動である。躑躅のうつくしさに対しては千里は恐怖を覚える一方で、ハンミョウのうつくしさに対しては、〈したゝかにうつて殺しぬ。嬉しく走りつきて〉と、激しい暴力性を見せる。おなじ俎上に載せられる美に対して、畏怖と破壊衝動という、相反するかのような感情を抱いているわけである。森和彦は、「龍潭譚」における、〈退行への願望と禁忌とが共存するアンビバレンツな状況のあやうさ〉(註9)を指摘しているが、その顰に倣うならば、冒頭の時点で、千里の精神は、両義性を、それもかなり極端な両義性を内包していたと言ってよい。

    千里はまた、かくれあそびで子供たちがいなくなったあと登場する〈優しきこゑ〉をもつ〈丈高き女〉に対しても〈うつくしき〉という表現を用いている。そこでもやはり、〈土のひろ/゛\と灰色なせるに際立ちて、顔の色白く、うつくしき人〉というぐあいに色彩は美の価値判断につきまとっている。ただし、ここで、冒頭であれほど激しくぶつかりあっていたうつくしさに対する感情はなりをひそめている。千里は女を恐ろしいとも暴力を強いるべき対象ともとらえない。つまり、「躑躅か丘」とは異なる価値判断をするようになっている。同時にわれは、〈うつくしき顔の笑をば含みたる、よき人と思ひたれば〉と語る。色彩的な美を認識し、さらに、〈笑〉の〈うつくしき〉にまで分け入っており、美の仔細な検討をおこなっている、という点は、非常に重要である。つまり、千里はここで、より「思考している」のだ。このことが、「躑躅か丘」の直観的な認識とは異なっている。これは、ただ単に表層の相違にとどまらず、同時に、異界の者に対する「理解」がより深まった瞬間でもあることを示す。つまりは、より深く異界に「呑まれた」瞬間でもある、ということになるのだ。

    「五位鷺」になると、千里は〈うつくしき人の姿〉を〈さやか〉に見る。ここで、〈うつくし〉さに対して、千里はこれまで以上に精緻な観察をしている。

    ちかまさりせる面けだかく、眉あざやかに、瞳すゞしく、鼻やゝ高く、唇の紅なる、額つき頰のあたり﨟たけたり。こは予てわがよしと思ひ詰たる雛のおもかげによく似たれば、貴き人ぞと見き。年は姉上よりたけたまへり。知人にはあらざれど、はじめて逢ひし方とは思はず、さりや、誰にかあるらむとつく/゛\みまもりぬ。

    ここで千里は、「現実」世界の記憶を参照しているものの、それは模糊としていて女の正体をつきとめるに至らない。いっぽうで、〈予てわがよしと思ひ詰たる雛のおもかげによく似たれば〉と述懐し、つまりは、「現実」で描いていた理想に異界に現出した女を上書きしている。これらのことにより、「現実」は希釈され、さながらこの異界こそが現実であるかのような様相を帯びてくる。

    それは、「現実」に戻ったあとの千里の〈うつくしき顔したりとて、(引用者略)いつはりの姉にはわれことばもかけじ〉という態度においても継続している。ここでうつくしさは、ふたたび扁平なものとしてあつかわれ、「現実」における現実認識のとぼしさを、如実にあらわす表現となっているのだ。

    しかしながら、「千呪陀羅尼」における暴風雨のあと、千里は姉を〈うつくしさはそれにもかはらでなむ、いたくもやつれたまへりけり〉と観察する。ここで千里は、ようやく「現実」の象徴であった姉を、異界的にではなく現実的に「見つめ」、認識を「現実」に帰属させることに成功している。それも、〈やつれたまへり〉と言う、〈うつくしさ〉とは一見結びつかないような語を、うつくしさと結びつけることで、これまでには登場しなかったあたらしい美の発見にも成功している。

    以上を踏まえると、「龍潭譚」における〈うつくし〉という用語の使用は、異界及び「現実」と、非常に密接にかかわっていることがわかる。〈うつくし〉という語を使用するとき、千里は、自身ではどう現実を認識しているのかという次元をたやすく超越し、精確に自身と異界もしくは「現実」との距離を表現「してしまう」のである。

    六「龍潭譚」末尾及び空白の時間について

    「龍潭譚」のクライマックスとも言える場面は、暴風雨のなか、姉が千里を抱きしめる場面である。

    からだひとつ消えよかしと両手を肩に縋りながら顔もて其胸を押しわけたれば、襟をば搔きひらきたまひつゝ、乳の下にわがつむり押入れて、両袖を打かさねて深くわが背を蔽ひ給へり。御仏の其をさなごを抱きたまへるも斯くこそと嬉しきに、おちゐて、心地すが/\しく胸のうち安く平らになりぬ。

    ここで、千里は確かにこれまでになかった充足を感じている。それは、〈乳をのまむといふを〉〈許したまは〉なかった〈姉上〉が、〈乳の下にわがつむり押入れて〉くれたことに由来するであろうことは、先行研究をひもとくまでもなく確かなことであろう。しかしながらここでひとつ問題が生まれる。すなわち、「龍潭譚」は、このクライマックスをもって完結していないという問題である。

    「龍潭譚」の掉尾は、〈あはれ礫を投ずる事なかれ、うつくしき人の夢や驚かさむと、血気なる友のいたづらを叱り留めつ。年若く面清き海軍の少尉候補生は、薄暮暗碧を湛へたる淵に臨みて粛然とせり。〉という文章によって飾られる。この部分をめぐっては、これまでさまざまな解釈がなされてきた。〈読者を戸惑わせるこのような突飛な筋の運びは、何よりも千里の生きた見えない時間が近代によって受け入れられなかったことから生じてくる。〉という指摘(註10)は多くの示唆を含んでいるが、少なくとも千里には、自分の前で〈いたづら〉をするような〈血気なる友〉がおり、彼を〈叱り留め〉ることができる。このような千里を〈共同体の外なる存在〉(註11)と看做すのはむずかしい。また、もし千里が〈共同体の外〉を〈漂泊〉しつづけ〈死の領域〉にいたのだとしたのならば、そもそも〈鎮魂〉という儀式(註12)は果たしえないであろう。〈鎮魂〉は、自身を〈生の領域〉にいると考えるものによっておこなわれる営為だからである。〈自ら物語を語り収めることができないままに消失する “われ”〉という指摘(註13)にも、疑義を呈せざるをえまい。「龍潭譚」において物語自体は九つ谺が沈んだところできれいに収束しているにもかかわらず、なぜかそのあとに成長した千里が登場するというテクストの未収束が起こっていることにこそ問題があると考えるべきである。

    ここで俎上に載せたいのは、千里の〈粛然とせり〉という態度である。それは、これまで〈われ〉として語ってきた千里の態度――姉の言いつけに背いてハンミョウを追いかけるような無邪気さ、母にするように姉の乳房を口にふくみたい気持ち――には見られない、非常に大人びたものである。つまり、この末尾で示されるのは、千里が〈海軍の少尉候補生〉になるまでにあった成長のおおきな余地である。逆に言えば、この直前までの箇所の千里の未熟さが、この最後の文章によって浮き彫りになるのである。

    そのような視座に立った時、「龍潭譚」を、〈千里の母性追慕の彷徨は、こうしてやっと安住の地を見出したのである〉という、物語のクライマックス部でテクストが停止したかのような指摘(註14)に首肯するのもまた困難である。むしろ逆に、千里がこれまでに類似した彷徨をこのあともつづけたからこそ、物語は完結しているにもかかわらず、テクストとしての完結はしなかったととらえるべきではないか。

    空白の時間のなかにあるのは、語りえない物語ではない。語りえない物語がもしそこにあったならば、「龍潭譚」というテクストの主導権は、最後まで〈われ〉に握られていたであろう。〈われ〉という一人称がテクストの最後に出て来ないことは、〈われ〉として語る必要がなくなったため、語り手の座を明け渡した、と考えるのが、もっとも自然である。〈われ〉でありつづける限り語りえない物語があいだにあった、と仮定することも不可能ではないが、そうであるならば、「龍潭譚」という物語が希求しているのは、一貫した〈われ〉の語りである、ということになり、その一貫性を崩すことを拒否する姿勢が毅然としていればいるほど、ラストでのみ〈われ〉が語り手から下りていることは不自然である。

    以上を踏まえると、空白の時間のなかにあるのは、語られる必要のない物語、つまり、「龍潭譚」に匹敵するほどの輝きのない、行きつ戻りつの彷徨の物語であり、飛躍的にでもドラマティックにでもなく、推し進められるように成長をしていく千里の姿である。その過程で、母を思慕する思いは、おおきくはあるが必然的な変容を遂げるが、決して消えることはない。だからこそ、〈海軍の少尉候補生〉となったいまとなっても、千里は母に対するロマンティックな思いから九ツ谺を訪い、その行為が、「龍潭譚」の中核を担う物語に接続され、テクストとして、ひとつらなりのものとして提示されるのである。(註15)