• 小説

    カレーの作り方

    篠田准教授は悩んでいた。というのも――。

    レポートを紙ヒコーキにして遠くまで飛んだら優、とか、女子は水着でテストを受けたら落とさない教授がいる、とか、とかく単位のつけかた(つけられかた、と、学生目線で言うべきだろうか)に関しては、さまざまな風聞があるものである。篠田准教授のもとにも、それを真に受けたとおぼしきレポートが、時折舞い込むことがあった。

    柏木真魚。たとえば、彼女は非常に優秀な学生だが、そのレポートもまた、篠田准教授にとっては非常に満足のゆくものであった。問題提起の仕方も実直だったし、そうして、立てられた問いに対する分析および結論には目新しいところがあった。篠田准教授は、彼女のレポートには迷わず優+をつけたのである。問題は――。

    彼女といっしょにレポートをもってきた、長谷川みどりのほうである。そのタイトルを(さあさあ、とくとご覧あれ)ここで披露することにしよう。ずばり、「おいしいカレーの作り方について」。ちなみに、篠田准教授の担当講義は近代日本文学であり、インド料理はおろかウパニシャッドにも馴染みはない。

    いやいや、もちろん、たとえば近代日本文学において、カレーという表象がどのように取り扱われてきたのかを取りまとめたレポートである可能性もあるのだから、タイトルだけで判断するわけにはいかない。そう思って、篠田准教授は首を振ると、読みはじめたのだが――。

    ところで、篠田准教授のカレーの作り方と言ったらこうだ。まずフライパンに油をしき、玉ねぎを炒める。玉ねぎがしんなりしてきたところで他の野菜もくわえて炒め、野菜にある程度火が通ったら、豚肉(という時点で、彼女のカレーの方法論が敬虔なムスリムの手によって齎されたものでないことは、容易におわかりいただけるかと思う)を炒め、水をくわえ、コンソメを入れ、細かく砕いたルウ(バーモント派だ)を入れ、弱火でぐつぐつと煮る。彼女のもとに、「カレーの作り方」を提出してきた学生はほかにもいて、おおむねやり方は同様であり、その単位は不可、不可、不可である。篠田准教授は、残念ながら、シナモンロールのようには甘くはないのだ。では、長谷川みどりの場合も同様に? いやいや、それについて語るには、彼女のレポートをひもといてみなくてはなるまい。

    「まず熱したフライパンにバター三十グラムを溶かし、クミンシード大さじ一を弱火で炒めます。」

    くみんしーど? もちろんそれは、あのカレーの香りを引き立たせる代表的なスパイスのひとつであるのだが、篠田准教授がそのことを知ることができたのは、長谷川みどりのレポートを読み、たかたかと目の前の端末の検索ボックスに、「クミンシード」と打ち込んだからである。篠田准教授は、食事に対しての関心が、残念ながら太いとは言えないのだ。

    「クミンの香りがしてきたら、みじんぎりにした玉ねぎ一個を入れてしんなりするくらいまで炒めます。飴色になるまで炒めたほうがおいしいですが、そこまで炒めなくても構いません。」煌々と、パソコンのバックライトに照らされた篠田准教授の顔の上で、眼鏡がくいと持ち上げられる。

    「次に、一口大に切った鶏肉をいれます。鶏肉には塩コショウで下味をつけておきますが、これも面倒くさかったら省略して構いません。鶏肉に火が通ったら、クミンパウダー大さじ一・五、コリアンダー大さじ一、ターメリック大さじ一、チリペッパー小さじ〇・五をくわえ炒めます。」コリアンダーとはパクチーの別称であり、ターメリックとはうこんのことであり、チリペッパーとは要するに赤唐辛子の粉末である。それでは、クミンシードとクミンパウダーを使い分ける理由とは何か? 濱畠啓子氏はこう書く。「スパイス&ハーブの香りは、一般的に、植物中の組織や細胞の中に閉じ込められており、香りが閉じ込められている組織・細胞を壊すことで、鮮烈な香りを楽しむことができます。したがって、粒度の小さいもの(細かく粉砕したもの)ほど、瞬時の香り立ちが良いという特徴があります。反面、香りが飛びやすいという性質も持ち合わせます。一方、粒度が原形(ホール)に近いほど香りが飛びにくいため、じんわり徐々に料理に香りをつけたいときに適しています(砕いたりせずに用いる場合)。」(https://www.sbfoods.co.jp/recipe/supportdesk/120312_qa.htmlより。)ふう、篠田准教授はと椅子にからだをもたせかけ、そのときに発生した摩擦によって、背もたれにかけられていたカーディガンが、ばさりと床に落ちる。

    「ホールトマト一缶を入れ、つぶしながら、固形コンソメ一個、塩小さじ〇・五、こしょう少々を加えます。生クリーム二〇〇ミリリットル(ココナッツミルクでもおいしいです)をくわえ、さらに牛乳一〇〇ミリリットルをくわえ、よく混ぜ、バター二〇グラム、ガラムマサラ小さじ一をくわえ、全体がなじんだら出来上がりです。(もちろん、時間をかけて煮込んだほうがおいしいです。)」

    篠田准教授は悩んでいた。というのも――。

    篠田准教授のリビングのテーブルのうえには、近所のスーパーのビニール袋が置かれている。その中身は? 先述した長谷川みどりのレポートに出てきたスパイスたちである。もちろん長谷川みどりのレポートは、レポートとしては、本来ならば、まったくもって不可である。だが、しかし。こうは考えられないだろうか? いったいぜんたい、どこの世界に、たいして仲もよくない関係の他人に、カレールウのパッケージに載っているようではない、いかにも秘伝めいたカレーのレシピを教えてくれる人物というものがいるだろうか? 自分はこの「告白」を、鄭重にあつかうべきではないか?

    とりあえずこの手順どおりに、スパイスからカレーをつくってみる。もしまずかった場合には、遠慮会釈もなく、不可だ。では、もしおいしかった場合は――やれやれ、篠田のレポートは、カレーのレシピを書けば落とされない、といううわさが流れることに、甘んじなければならなくなるであろう。


    ※一部不適切な用語の使用があったため、表現を見直しました。(2022/2/21)