• 論考

    Man is not equally mortal――灰谷魚「死と教育」について

    灰谷魚さんの「死と教育」は、二〇一九年一一月二二日に、SNS「note」に発表された、合計六六六字の、掌編小説としてもかなり短い部類に属すると言っていいだろう小説です。(ついでにいうのなら、六六六という数字は非常に不穏なものですよね。)もう存命でない方についてお話するときでしたら、簡単に略歴とかを紹介するのもいいのでしょうが、灰谷さんはカクヨムやg.o.a.tなどで現在進行形でご活躍中なので、わたしがしれっと余計なことを申し上げるよりはそちらをご覧いただくほうが早いうえ誤解が少ないと思います。灰谷さんのTwitterアカウントを本書末尾に記載いたしますので、ぜひご確認ください。

    「死と教育」について語る前に、まずは少々個人的なことをお話しさせていただければと思います。わたしは二〇一九年に祖母を亡くしました。突然死とかではなく、がん闘病の末の死だったので、そういう意味でのショックは少なかったのですが、その死を、なんというか、少々うまく受け止められない自分がいて。もちろん、死んだ人間がザオリク一回で蘇るとかそんなことを思っているわけではないのですが、悲しむとかよりも、なんだか妙にハイテンションになってしまって……。もしかするとそうすることで、死を直視せず気を散らしていたのかもしれません。

    なぜこんな話をしたか、というと「死と教育」における「死」の扱われ方を少し考えてみたいからです。

    「死と教育」は特異な設定の小説です、それは、冒頭の〈13歳にして僕は小学校の担任を全員亡くしている。〉という一文で、まずは決定的に示されることになります。つづく段落では、六人のうち五人の死因が淡々と語られてゆきます。

    そもそも、子供にとって「死」とはなんでしょう。碓井真史さんが明確にしてくれていますとおり、ごくごく小さいころの子供はアニミズム的価値観で生をとらえる一方で、死については、認識に鎧戸をおろされた状態にあります。そうして、長ずるにつれ、「死んだものは生き返らない」という認識に至りつくわけです。もし、子供のうちに死に触れる機会があった場合、その感情の表現能力の低さから、あたかもなにごともないかのようにふるまってしまい、身体症状となって現れる場合もあるとか。

    では、「死と教育」の語り手の〈ぼく〉はどうでしょうか。碓井さんは、「死を理解するためには青年期を待たなければならない」ということもおっしゃっています。一三歳という年齢は、なるほど、青年というよりは少年と呼ぶにふさわしく、彼は「死というものに理解が及んでいない」がゆえに、さくさくと担任の死を羅列している、という可能性がまずあります。

    しかし、この可能性に留まりつづけることは、少々むずかしいのではないかと思います。なんとなれば、〈ぼく〉が六人のうち四人が老人であったこと、すなわち、若者より死に近しい存在であったことを「読者」に断っているからです。これは少なくともふたつの意味で重要です。第一に、老人=死により近しい、という「認識」自体が幼児のものでないから、第二に、これはテクストの構造上の話になりますが、この一文が本文にあるという事実自体が、〈ぼく〉のある種の老成した価値観――というよりもこう言ったほうが適切かもしれません――数々の死によって老成「させられた」価値観を示しうるからです。

    このことについて、もう少々説明がいるかもしれません。試しに「死と教育」から〈6人の先生のうち、4人は老人だった。〉の一文を、落としてみましょう。これがないことで、まず、得られるものがあります。すなわちスピード感です。死を徹底的に記号化するのなら、その前提である「生」も、もっというなら、個々の人間の「属性」も、剝ぎ取られているほうがベターであるように、個人的には思われます。

    では、逆にこの一文があることで得られるものというのはないのでしょうか。もちろんあります。今言ったことのちょうど逆にあたるものがそれです。つまり、スピード感をほんのすこし犠牲にすることによって、死や生は記号化をぎりぎりのところで――「死と教育」においては、ほんとうに絶妙にぎりぎりのところで、といっていいでしょう――免れることになる。そうして、そのことが、死に対する非-無垢さと非-すれた感じの混淆した表現となって、読者の目の前に現前する「文字列」となるのです。

    未見のものについて語るのは、本来まったく褒められたものではない、ということをお断りおきしたうえで、わたしが思い出したのは、どこかで拝読した、スティーブン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」(未見のものなので、あまりつまびらかに説明することはできないのですが、この映画はホロコーストについての映画です)についてのこんな評価です。すなわち、「登場人物の顔を視聴者の記憶に刻みこめるように描写することで、その個々の死に重みを与えている」という――。

    ただしもちろん、〈老人だった〉というだけでは、個々の「顔」を描き出すには十分とは言えません。では、個々の顔が十分でないということは、「死と教育」において瑕瑾と言えるのか、ということが、当然次に問題になってくるでしょう。

    ここで、ここまでで語られていない六人目の死者についての言及を、いよいよ見てみなくてはなりません。

    六人目の死者、この作品においては、「最後まで生きていた〈ぼく〉の担任」、ということになりますが、彼女について、〈ぼく〉はこう言っています。

    きのう遠い街で殺されて、
    山岸沙織(26)
    という文字列に変化してしまった。

    これが、これまでの五人の死を語る手つきとはまるで違っていることは明白でしょう。まず、名前がある。そして年齢がある。さらにいうなら、〈文字列に変化してしまった〉とある。これ自体が、まったくの無味乾燥なものではないことは先ほどお話したとおりですが、それでも単なる「文字列」にかなり接近したものとして描写された五人の死に対する、ある種のシニカルさ(と入力したら、「死に軽さ」と変換されました)のある批評として機能しているといっていいでしょう。

    このことから言えるのは、五人の「死に軽さ」は、山岸先生の死をより明るくくっきりと見せるためにつけられた影のようなものとして存在している、ということです。けれども、語り手〈ぼく〉の倫理観は、いっぽうで、「死」というものを、いわば「だれかを輝かせる」ために軽々に使用することをよしとしなかった。ゆえに、これまで長々と述べてきたとおりに、〈6人の先生のうち、4人は老人だった。〉という但し書きをつけているのだ、と考えることができます。

    山岸先生が〈ぼく〉にとって特別な先生であったことは、つづく展開からも看て取れます。すなわち、中学受験のための算数の補習をしてくれる山岸先生に対して、わかっている問題をわかっていないふりをして聞く、という身振りです。先生の厚意を無にしたくなかった、という少年らしい遠慮。あるいは、先生の〈クリアな〉声を聞いていたかったという少年らしい欲望。ここはいかようにも解釈の余地が残っているでしょうが、どんな解釈をするにあたっても前提となるのは、〈ぼく〉の山岸先生に対する好感です。それは、〈山岸先生のブラウスの襟にかかった髪の挙動を今も覚えている〉という部分においても同様でしょう。〈覚えている〉ためには知っておく必要があり、知っておくためには〈髪の挙動〉を見つめている必要があるのですから。

    いっぽうで〈ぼく〉は、「大好きだった山岸先生」とか、「山岸先生はぼくにとって特別な先生でした」とか、そういう、文字化してしまうとチープさを帯びかねない言葉で山岸先生を表現していないことにも気づかされるのではないでしょうか。安易な、つまり使い古された、つまり「ほかのだれか」に対しても使用することが可能な修辞を撥ね退けるくらいの特別さ。それは、〈先生からは何の匂いもしなかった。清潔な花瓶みたいな人だ。〉という箇所で、ひとつの極点に達するのではないかと思います。〈清潔な花瓶みたいな〉とは、正直、これはすごいなと思いました。まったくの平易な言葉でありつつも独特な歯ごたえがあって、かつ、その言わんとすることが、すっきりと心のなかに入って来る。

    テクストの終盤、ル・クレジオの「大洪水」が引用されます。引用の引用はやむをえない限りは避けたいところですが、今回はどうしても必要なので少しだけ。ル・クレジオは単に「頭の中」ではなく、まず〈頭蓋骨の中〉と言っていますね。「頭蓋骨」、というのは、西洋絵画の図像学においては、「死」の寓意を孕んだものですことをご存じの方も多いでしょう。そうして、その中において〈生存しないということはできなかった〉とある。つまり、生を死の檻が囲っているイメージです。しかし、〈ぼく〉はこれに対して、〈小説には嘘ばかりが書いてある〉と陳べます。嘘だからいいとか悪いとかの話はしていないことは一応考慮に入れる必要がありますが、それでも、これは考えようによっては奇妙なことかもしれません。〈ぼく〉の生の周りには少なくとも六本の「死」の柱があり、それは、見ようによっては、ル・クレジオの描いた生と死の図と同様ですから。

    ところで、ヴァニタス画――西洋絵画における頭蓋骨などのモチーフが寓意的に用いられた絵画――とは何か、ということを考えてみると、たとえば貫井一美さんは次のように言っています。

    ヴァニタス画は静物画の 1ジャンルであり,人間の死すべき運命を象徴し,この世の富と栄光の虚しさを諭す絵画である.(貫井一美「バルデス・レアル作 〈虚無のアレゴリー〉〈救済のアレゴリー〉 ~ヴァニタス画に描かれた「本」の持つ意味~」より)

    注目すべきは〈死すべき運命〉です。この言葉が暗に示すのは、死というものの「平等さ」です。生は固有のものであっても、死というのは、〈ぼく〉の言葉を借りれば、誰もを〈文字列〉化するものである。そういう点において相違はありません。

    ですが、〈文字列〉と言いながらも、〈ぼく〉が山岸先生を語る口ぶりはどうでしょうか。それは、〈文字列〉に対する飽くなき反撥であり、五人の死の語り口の少なからぬそっけなさと比較してそこからうかがえるのは、いささか敷衍しすぎかもしれませんが、「生が平等でないのと同様に、死も平等でない」という価値観ではないでしょうか。ル・クレジオの小説を「嘘」と見なす語り手の心理は、たとえばこういうふうに考えてみると、しっくりくるように思われます。

    山岸先生は病死や事故死ではなく、なにものかに〈遠い街〉で殺され死を迎えます。「理不尽」、というにふさわしい死の迎え方と言っていいでしょう。なるほど、死は誰にでも訪れるものです。けれども、死が平等なのは自身が死者になってからであって、少なくとも生者はそういう言葉で死を語るべきではないのではないか。そんなことについて考えさせられた、非常に刺激的でおもしろい作品でした。

    • ❖取り上げた作品
    • ・灰谷魚「死と教育」https://note.com/haitani/n/n4d6701afc1b2(二〇二一年九月三日閲覧)
    • ❖取り上げた作品の著者について
    • ・灰谷魚 Twitter https://twitter.com/sakanasama0824
    • ❖参考文献など
    • ・碓井真史「子供の死生観と教育」http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/koneko/2005/siseikan.html(二〇二一年九月三日閲覧)
    • ・貫井一美「バルデス・レアル作 〈虚無のアレゴリー〉〈救済のアレゴリー〉 ~ヴァニタス画に描かれた「本」の持つ意味~」(「清泉女子大学キリスト教文化研究所年報」二三巻、二〇一五年)
  • 短歌

    犬に食わせろ(10首)

    ・兄は雲丹、知を司る。弟は野薔薇、怒りとは彼の別名。

    ・笑いものにされた絵具で描かれた果物ゆえに(その寓意より)はやく萎びる

    ・頑迷な警察官ポリスマン それは出会い頭の郵便事故と認めようとしない

    ・木漏れ日に眠る仔馬は玻璃ガラス張りの膚の少女にあたま預けて

    ・ジェラートの時計回りに渦を巻き押し流される蟻のいくつか

    ・心臓など犬に食わせて掌に載る大きさの石でじゅうぶん

    ・太陽の赤・六に月の白・四を重ねて西瓜は真夏を産んだ

    ・晩秋のきび砂糖が柿の実の陽ざしの中で風に固まる

    ・知に汗を、力に学びを、皮膚の奥に心は入れずに拵えあげた

    ・実る前に枯れるものあれば実る前を愛でるものもある秋の庭

  • 書籍/電子書籍

    英雄

    神様の唇に引かれた口紅のように、掌では拭いきれないほどの夜がやってくる。ディオンガのおなかの底は白くなった。雪のようにつめたい火の棘のついた茎が血管に絡みつきながら目の奥まで届き、ディオンガの視界の隅で、薔薇となって炸裂する。もう、オレンジの皮よりもずっと薄い壁の向こうで、父親と母親がささやき交わす声は聞こえない。乾いた唇を舌で舐めると――しかしこの言い方は、あたかも舌以外の器官でも舐めるという営為が可能であるかのようではないだろうか――、ディオンガは粗末なベッドから身を起こし、色の褪せた敷物のうえに足をおろす。むしろ汗ばむほどなのに、ディオンガはその身体を二、三度震わせた。はずみで、もうこれ以上の洗濯は断固として拒絶すると言いたげによれよれの黄色いTシャツ――しかし、ディオンガの住んでいる国では、もうずいぶんと長いこと、ほとんどありとある物資が不足していた――が、ふいにまくれあがっていたことを恥じ入るかのように、ディオンガの臍を隠す。

    「英雄」

    収録作品

    • 英雄

    販売サイト

    • BOOTH
    • Gumroad
    • KDP(電子書籍)
    • KDP(オンデマンド紙書籍)

    初版発行日

    • PDF:2021年12月1日
    • 書籍(B6):2021年12月1日

    頁数

    • PDF:71p
    • 書籍(文庫):74p(表紙回り4p含む)

    発行元

    • PDF:6e
    • KDP(書籍):Independently published

    備考

    第3回ことばと新人賞二次予選通過作。

  • おしらせ

    ご依頼用のフォームを設置いたしました

    ご依頼用のメールフォームを設置いたしました。

    https://ws.formzu.net/fgen/S69526179/

    こちらのフォームをご利用でないご依頼につきましてはスルーする可能性が高いです。ご承知おきください。

    法人様からの無償のご依頼については原則としてお受けできませんが、個人の方の場合は一度、ご相談いただければと思います。よろしくお願いいたします。

  • おしらせ

    Twitterの今後の利用について

    Twitterアカウント(告知用ではないほう)につき、おそらく、ですが、当面の間更新停止いたします。以下、その理由につき、簡単に説明したいと思います。

    Twitterをやっていると、心が落ち込んだり、もっと率直にいえば恐怖を感じたりすることが、このところ増えてきました。ブロックやミュートなどで自衛はしているつもりですが、それでもなお、単純な思考や嗜好の方向性の違いというだけではわたしにとっては片付けきれないようなツイートに出くわす機会は一向に減る兆しを見せないばかりか、ますます多くなっていくような印象を受けています。

    社会的弱者を蹂躙したり排撃したりして悦に入っているツイートに対し、もちろんスルーという方法もあるのだろうとは思いますが、一方で、そういうツイートに対しなんらかの見解を表明しないのも、マイノリティとしての「自分の役割」を放棄しているようで、わたしは、居心地がよくありません。しかしながら、140文字の世界と議論との相性の悪さは、可視化されて久しいと言って過言ではないでしょう。そうして、自分にとって、というか、ロクエヒロアキにとって、Twitterというメディアを利用する意味はなんだろう? と立ち止まったとき、情報発信以上の狙いを持たせる必要は現状ないな、という結論を出すに至りました。

    とはいえ、これは何か言いたいことがあるときに口を閉じるということでは、必ずしもありません。わたしにはHPがあるので。単純に、不毛なことに時間を濫費するのをやめよう、という事情だとお考えいただけますと幸いです。

    アカウントを削除しようかどうかも若干迷ったのですが、相互さんとはDMなどでこれからもやりとりができると便利なので、こちらは残しておきます。いずれ鍵アカウントにする可能性もありますが。今後の新規情報につきましては、@rokuehiroaki をフォローいただけますと幸いです。

    よろしくおねがいいたします。

  • 小説

    或る翌朝

    ――……ぼくはひねくれているのかな?

    そういうと、雲母うんもは小首を傾げて見せました。思わずぼくは、声を殺して笑います。「小首を傾げる」という動作が、なにかすごく、いわばメタ的な、というか、動作のための動作的な、というか、そういうものとして感じられたからです。サイドテーブルから眼鏡を取り上げると、雲母はぼくが笑っていることに気づき、軽く口をとがらせてみせる(この動作も、漫画などではよく見かける心情表現ですが、日常生活ではあまりお目にかかることのないものと言っていいでしょう)ので、いよいよぼくは心置きなく大声で笑いはじめます。ぼすん、という音がして、雲母の気配がぼくの横に倒れ込んできたので、ぼくはようやく笑うのを止して、いとしいものを見つめるときの眼の細さをつくりました。白皙の王子様がやったとなら、それはひどく様になるのかもしれませんが、徹夜明けの腫れぼったい一重瞼の平民がする仕草では、ところかまわず好みの男女をいちころに、というふうにはいかないでしょう。

    雲母もぼくも、容姿に秀でたところがあるタイプではありません。ですが、ぼくは雲母のさらさらの髪に関して言うなら、控えめに言っても「大好き」ということになるでしょう。曲げた肘で頭を支えながら、もう片方の手で雲母の髪の間に指をいれます。そうして、雲母の髪の先端をそっとつまんで手を離します。髪の毛はすぐに元の場所に戻ります。その従順さときたら、きつめの天然パーマのぼくからすれば考えにくいことです。雲母はしばらくぼくの腕の動きを特に目を動かさずに見つめていましたが、やがて、軽く微笑むと、

    ――石英せきえい、ぼくがひねくれものかどうかは、きみにとっても大切なことだと思うよ?

    そう言って、ふたたびサイドテーブルに眼鏡を戻し、軽く微笑むと灯りを消しました。六月の午前六時の太陽が、雨戸の向こうではどんちゃん騒ぎをしていることでしょうが、あいにくこの部屋に、その浮かれきった声が届くことはありません。

    すぐにでも眠りに落ちるのはたやすいことです。なにせ、先ほど申し上げたとおり、ぼくたちは徹夜明けだったのですから。けれども、ぼくの身体は興奮のためか少し火照っていて、それは雲母にしてもおなじことのようです。はじめはぼくに背を向けて、ぼくが眠るのを待っているようにひそめた呼吸をしていたのですが、やがてこちらを向いて、

    ――ねえ、石英。ぼくはもうへとへとなのに、この体も、心もまだまだ眠りたくないみたいだ。

    ――それはぼくもおなじさ。

    ――あ、

    そう短く応ずる雲母の声は、どこかしら間の抜けたひびきを帯びてぼくの耳に届きました。ぼくはもう笑いません。かわりに雲母がくつくつと喉の奥で笑いはじめます。ぼくたちは恋人ですが、一心同体というわけではありません。比翼の鳥ですらないのでは、と思います。運命ではなく偶然、偶然が玉突き事故を起こして、なぜかそばにいる、そういうほうがふさわしい関係ではないでしょうか。けれども、なにがおかしいんだよ、そう尋ねるのはなんだか野暮な気がして、ぼくは開きかけた口を閉じました。ふたたび開いた口から出てきたのは、なぜか妙に心細げな声でした。

    ――今日のデモに集まったLGBTQ、そうじゃないひともいたのかもだけど、そのなかで、

    ――うん。

    ――絶望していないひとはどのくらいいるんだろう。あるいは……、

    ――ゼロだよ。

    絶望とはなんだろう、と言いかけたぼくを遮るように、自信たっぷりに雲母は言いました。ぼくは少々、だけれども「ほんとうに」おどろきます。

    ――ゼロなのか!

    ――そうだよ。みんなみんな絶望してる。絶望しつつ怒っている。そうしてはじめて行動が生まれる。死者的な、ゾンビ的な、生を剝奪されかけているものに特有の、あくまで純粋な行動が。

    そこまで早口で言うと、今度は雲母はおおきくため息をつきます。そうして、「ぼくはひねくれているのかな」、と、ふたたび口にしました。先ほど、「ぼくはひねくれているのかな」、の前に雲母が口にしたのはこんなことばです。「ほんとうは、なにかが変わるなんてこれっぽっちも思うことができない」。しかし――いまの雲母のことばを聞いて思いついたことがあります。すなわち、『あくまで純粋な行動には、企図など介在する余地はない』。つまるところ、そういうことではないのだろうか。

    ――石英、きみ、いま、泣いているね。

    雲母がそう言ったので、ぼくは動揺して自分の頰を拭いました。けれども、頰は濡れてなどいません。すなわち、ぼくは無自覚に涙を流していたわけではない、ということになります。けれども、雲母の泣いているね、ということばは、否、そのことばにこめられた固いものをすべて削り取ったあとのようなひびきは、やさしくぼくの涙腺を刺激しました。涙がぼくの眼からこぼれ落ちたのは、こういう次第です。

    泣いているね、と口にし、泣いていたのなら、慰めてくれるつもりなのか、と一瞬思いました。けれども雲母は、そう言うだけ言うと、ふたたびぼくに背中を向けてしまいます。ぼくは拍子抜けします。ひねくれているかどうかはさておき、やはり雲母のことはよくわかりません。そのわからなさを、少しずつ解決して知っていこう、という向上心すら、正直なところぼくにあるのかどうかはあやしいものです。離れがたい、離しがたい、という気持ちだけで愛と呼べるのか。むずかしいことはわかりません。ただぼくは膝を曲げて背中を丸め、折り畳まれたパイプ椅子のようにゆたかな眠りが体の中を満たしてくるのを感じながら、玉突き事故を起こしてくれた偶然に、ちいさくありがとうと伝えたのです。

  • おしらせ

    ホームページ改装しました。

    2021.8.25 修正

    かねてからの課題であった、ホームページの大改装をいたしました。今回の改装での主な変更点は以下のとおりです。

    1.Gumroadへのリンクを追加いたしました

    作品のダウンロードサイトとして、Gumroadを追加いたしました。DL可能なものはBOOTHとおなじですが、Gumroadはアカウントをお持ちでない方もご利用いただけます。ご都合に合わせてご利用ください。

    2.製本直送どこでも販売へのリンクを追加いたしました

    これまで受注生産でBOOTHで販売していた書籍を、今後は製本直送さんのどこでも販売を利用して頒布することにいたしました。これにより、全体的に、これまで若干ですが安価で受注生産の書籍を頒布することが可能となりました。また、これにともない、BOOTHでの頒布物は、①ダウンロード商品、②R指定のつく作品の紙書籍版、③手元に在庫のある紙書籍となります。

    3.書籍販売サイトの一覧ページを作成いたしました

    販売サイトの増加に伴い、各販売サイトのページへのリンクを整理し一覧にいたしました。こちらをご覧ください。

    4.サブスクリプションへのリンクを解除いたしました

    あまりに更新ができていないので、各サブスクリプションサイトへのリンクを解除いたしました。ページは残しますが、アップしたものはいずれも電子書籍/オンデマンド書籍でいずれはお読みいただけるようにするつもりです。

    というわけで、無事アップデート完了いたしました。今後ともよろしくお付き合いくださいませ。

  • 書籍/電子書籍

    さよならデイジー

    水瓶の底には
    武器が置かれていて
    わたしは
    手を濡らさなければ
    それを取ることができない

    手が乾くまで
    わたしは
    武器をあつかうことができない

    「水瓶の底」

    収録作品

    • 水瓶の底
    • あつかましい段差
    • 五色の風
    • すきまさんぎょう
    • 生水
    • プライヴェート・ビーチ
    • 泥(DORO)
    • 王冠
    • 太平
    • 初恋
    • よるぼし
    • さよならデイジー
    • テレパシー
    • 雨宮くん
    • 枇杷の實
    • 星のジャム
    • 燃えろ
    • 時差
    • 葬列
    • 紙飛行機
    • その喪失
    • 家路
    • 社会生活
    • 決して
    • 距離
    • つめたいこども
    • そのまま
    • ライブラリ
    • ゼロ地点に立ち
    • 初夏凜々
    • 色のない塩の一滴
    • 出会い
    • 結婚
    • 向う脛洋菓子店
    • 四限、体育。
    • ヌバタマ・サイレンス
    • A Crushed Tomato
    • 未開
    • 新天地へと

    販売サイト

    初版発行日

    • PDF:2021年3月1日
    • mobi:2021年3月27日
    • 書籍(文庫):2021年3月1日

    頁数

    • PDF:100p
    • 書籍(文庫):108p(表紙回り4p含む)

    発行元

    • PDF:6e
    • mobi:6e
    • 書籍(文庫):6e

    備考

  • 書籍/電子書籍

    あさいらむ

    舩山腦病院五一〇號室に入院してゐる三科城之助は、六一〇號室に入院してゐる三科通と、宛ら姉弟のやうなりき。偖、此日も亦――――

    「あさいらむ」

    収録作品

    • あさいらむ

    販売サイト

    初版発行日

    • PDF:2021年2月2日
    • mobi:2021年2月2日
    • 書籍(文庫):2021年3月15日

    頁数

    • PDF:21p
    • 書籍(文庫):22p(表紙回り4p含む)

    発行元

    • PDF:6e
    • mobi:6e
    • 書籍(文庫):6e

    初版仕様

    • 本文用紙:クラフトペーパー_プレーン_108K
    • 表紙用紙:モダンクラフト_137.5K
    • 印刷会社:株式会社明光社 STARBOOKS

    備考

    擬古文/旧字旧仮名総ルビ

  • 小説

    遠景の乙女たち

    きゃーっ! という、若い乙女がよくあげる、楽しそうな叫び声が聞こえてきました。口元に、ココアの入ったマグカップを持っていきかけていた手を止め、わたしが窓の外に目をやったのは、もちろんその「叫び」が要因といえば要因に違いありません。けれどもじつは、心のもっと深いところで、その「声」のほうに感応していた、というのがほんとうのところなのです。彼女の「声」は、一昨年亡くなった、昔なじみの友人の喜美ちゃんの、女学生時代の「声」にそっくりだったからです。

    わたしは眼を細め、部屋の窓から戸外を覗き込みます。冬空よりもよほど水色をしたセーターを――近頃のひとはニットというのでしょうか――着た乙女が、あんず色の手袋を嵌めた手に白いものを持ち、三メートルほど離れたところにいる、樫の樹のような色合わせの服の乙女に、それを投げつけようとしてます。樫の樹ガールは、顔、ではなく、なぜか耳を両手でおさえると、胸元でその白いものを受け止めました。白いものがはじけ、あたりに散らばり、一面の白いもののなかに埋もれます。なるほど、雪が積もっていたようでした。道理で冷え込むわけです。

    今度こそココアに口をつけながら、わたしはそっと、左手でお腹を押さえました。胃にスキルス性のがんができていることが判明してから、今日でおよそ半年が経ちます。手術に持ちこたえられるほど、わたしは若くはありません。あとどのくらいわたしの生命は保つのか――そんなことを考えながら、失せつつある食欲のなかで少しでもカロリーを、と考え、近頃朝は、砂糖をたっぷり入れたココアを飲むようにしています。もともと甘いものは好きですから、さほど苦にはなりません。

    もしかすると喜美ちゃんが迎えにきたのかもしれない。そんなふうにふと思ったのは、あらかたココアを飲み終えてからでした。十五年前に先立った夫ではなく、なぜ喜美ちゃんが? そりゃあ確かにわたしと喜美ちゃんは、無二の親友でした。水魚の交わり、といっても決して過言ではありません。戦時中はおそろいの布で防災頭巾をつくり、わたしが田舎へ疎開することになった際には、抱き合って涙を流しましたっけ。そうして、敗戦を迎え、それから、お互いに伴侶をもち、めまぐるしく変わっていく日本の様子を横目に少しずつ齢をとっていきながら、わたしたちは年に一度は顔を合わせて近況を報告しあうという、そういう仲でした。

    喜美ちゃんは、旦那さんと折り合いがあまりよくないようでした。近況報告の半分以上は、夫がうるさい、夫があれをしてくれない、そういう愚痴に終始し、正直に言うのなら、それに辟易することさえありました。でも、人は変わるものです。その変化を受け止めてこそ友情というものではありませんか。それに、ひとしきり夫の悪口を並べ立てた喜美ちゃんは、さっぱりした顔で言ってくれたものです。フサちゃんはぜんぜん変わらないね、と。それを聞いたわたしはうれしかったか? ん? とわたしは思います。「うれしかった。」ではなく、「うれしかったか?」とは。いったいなぜそんなふうに思うのでしょうか。

    きゃーっという叫び声がまた聞こえます。今度は喜美ちゃんとよく似た声――ではありません。おそらく樫の樹ガールが今度は叫び声をあげたのでしょう。交互にあがる叫び声。そういえば――と、わたしは思います。年に一度の集まり、わたしのほうから声をかけたことはなかったな、と。いっつも喜美ちゃんが、逢いたいな、というわたしの気持ちを見透かしたようなタイミングで声をかけてくれ、そうして旦那さんの愚痴に長広舌をふるう、というのがつねでした。いえ、ここ最近のことだけではない、よくよく考えればいつもそうでした。わたしのほうから喜美ちゃんに対して行動を起こしたことは、なかった。わたしはなにも言わなかった。防災頭巾の布でさえ、決めたのは喜美ちゃんでした。いま、はっきりと思い出しました。わたしはもう少し暗い色のほうがよかったのに、喜美ちゃんが、派手、とは言わないまでもちょっと明るめの色の布を選んで、ふたりして先生に怒鳴りつけられたのですから。しくり、と胃が痛みます。わたしは喜美ちゃんのなんだったのでしょう? それを言うのなら、喜美ちゃんはわたしのなんだったのでしょう? さっき「水魚の交わり」と思ったばかりなのに、ふいにそんな疑念がわたしをとらえ、鶏の脚のようにわたしの心をぎゅっとつかんだのです。

    何か、祈るような、すがるような気持ちがこみあげるままに、わたしはふたたび窓の外を見――そうしてぷっと噴き出しました。

    乙女たちは、雪の上で大の字になっていました。この寒い折ですから、いまどきの乙女たちは当然ずぼん姿です。とはいえ、なんて無防備、なんたる無茶!

    そのときになってようやく、わたしは思い出したのでした。疎開先から帰ってきた、あの日のことを。東京へ向かう列車のなかで、久しぶりに喜美ちゃんに会えるよろこびで、わたしは胸を弾ませていました。けれども列車から降りたわたしをプラットフォームで待ち受けていたのは、ぎゅっと拳を握りしめ、いまにも泣きそうにしている喜美ちゃんの姿でした。わたしを認めると、喜美ちゃんは駆け寄って来、わたしが疎開に行く時よりも盛大に泣きじゃくりながら、わたしを抱きしめたのでした。

    ――ふ、フサちゃんが死んでたら、あたしも死ぬって思ってた。

    肩に落ちる涙のあたたかさを感じながら、わたしは思います。ああ、やっぱりわたしたちは、友達だった。おそらく、いま雪の冷たさを全身で感じているだろうふたりの乙女たちとおなじくらいには、しっかりと。口に出せなかったこと、口に出しすぎてしまったこと、そういうのを全部ひっくるめて――あれがあのときのわたしたちの最善で最高だったのだ、と。

    天国に行ったら、喜美ちゃんに伝えなきゃ。わたし、あなたが旦那さんの悪口を言うのが少し苦手だったの、と。でも、喜美ちゃんがいてくれたから、わたしの人生は楽しかったよ、と。

    もう一杯ココアを出そうとわたしは袋を開け、もう残りが少ないことに気づきます。さいわいお天気も回復しているようですし、午後になったらまたココアを買いに行こう。新しいココアを買うのだから――せめてそれを半分は飲み干すまで、わたしは生きなくちゃ。